徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百五十一段*<啓示>2009.10.26

 前段で書いたフォーレのレクイエムのこと・・・11年ぶりに聴いたと書いたが、それは11年前にこの曲を指揮したからということなのだ。そのことを書くのを忘れてしまった。
 不思議なもので、鑑賞という意味で音楽を聴いていたのは、学生の頃までだという気がする。
 指揮にしろ、音楽教育にしろ、音楽に関する仕事をするようになってからのレコードやCDは、鑑賞というより勉強のために聴くようになった。これは、あまり楽しいことではなくなる。観点は表現の違い・・・もちろんその前に初めての曲だと曲の雰囲気がわかるということもありがたいことだ。それと表現の違いの中で大きな要素は、その演奏からどんな「啓示」を受けるか、がある。

 「啓示」これは自分以外の人からしか与えてもらうことができない。音からでも視覚からでも言葉からでも、どんなところからでもいい・・・「啓示」と感じられれば満ち足りた気持ちになる。心が躍り、生きる糧を得られたような気持になる。
 できれば啓示を与えられる人間になれれば・・・これは夢のような望みかもしれない。

 勉強のための鑑賞だが、その中に圧倒的な存在で迫ってくる演奏がある。フルトヴェングラーのベートーヴェンのシンフォニーはまさにそれだ。こういう演奏になると勉強にとか参考にとかの範囲を超えてくる。それこそ神からの啓示を聴いているかのようになる。ひたすら頭を垂れて聴くしかない。むろん、その演奏を真似しようなんてことは思ってもできない。低レベルでの書き方をすると、フルトヴェングラーの指揮は演奏する側からすれば見にくいというか、わかりにくい。それこそ指揮のしかたの真似は恐ろしくてできない。仮に私がやったらブーイングの嵐だろう。指揮者ボイコットになることは請け合いだ。

 啓示を与えてくれる人は、人間離れをできる人ともいえそうだ。少しの欠点なんて気にならなく、欠点さえも長所になってしまうような人だけが、他の人に啓示を与えることができるようだ。そう思えば、自分が啓示を与えるようになりたいなどと書いたことは、夢というより恐れ多い発想だ。「・・・という夢を見る」ことくらいが身分相応だということか。

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