徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百五十七段*<秀逸ドラマとの出会い>2009.11.8

 五日ぶりになるか。この徒然草を書くのは。教員時代とは違い、仕事の入り方が一定でないということも理由の一つだ。一日の中に二つ以上の仕事が入ることもあり、何もない日が何日か続いたり、とか・・・これは自由業の良いところでもあるし、自分のぺースを作れないという観点からいうと適応が難しい。「慣れ」が必要なのだろう。

 千葉県には県民合唱団があり、毎年一回の公演を催している。15年も続いている。その一部の指揮を担当しており、今日が今回の合唱団との第一回目の練習日だ。合唱指揮者のもとに7月から練習をしており、本番指揮者との初顔合わせということになる。

 モーツァルトとフォーレのレクイエム・・・ともに名曲中の名曲だ。本番まで三カ月余り。まだ全曲の譜読みは終わってないのだが、終わり近くにまでは達していた。150〜200人のエネルギーを感じながらの合唱指揮、これには疲労感と充実感の二つが宿る。

 どちらにしても、満ち足りた「感覚」であることは間違いない。
 この感じが、この文を書かせているともいえるし、録画で見た「JIN」のエネルギーもそれに加わった。私にはテレビドラマを見る根拠がある。それは、物語のテンポ、映像、音楽がどのようにハマると感動のドラマになるのかという、私自身の音楽表現の糧にしたいという欲求でもある。

 それも自分の指揮の糧にしたいのだ。「それも」と書いたのは、もちろんそれが全てではないという意味だ。
 しかし、このドラマは全てに感心してしまう。必要なものが有機的にかみ合っていて、物語の設定の荒唐無稽なところでさえも、そう感じさせない。制作に関わっている人の「本気」が伝わってくる。いつでも私の心が動くドラマは、自分がなそうとしてもなしえないことを表現しているものだ。それを、華麗な映像と心に迫る音楽と役者の役になりきった演技とで見せられれば、否応なく心が動いてしまう。

 空想だけでもなく、リアルなだけでもなく、この境界線を感じさせずに理屈を超えて心に迫るのがドラマの醍醐味だ。毎日流されるテレビの映像だが、心に迫るドラマはそう多くはない。

 偶然に出会う秀逸のドラマ・・・これは私にとっての新しい発見の時でもあり、新しいエネルギーにもなり、生きる糧そのものにもなっている。
 自然や芸術という枠を超えた共感の一つだ。予想通りに物語が進めば己の感覚を肯定でき、予想に反したら意表を突かれることに惹かれる。これは指揮者のなすことそのものだと思わざるを得ない。

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