徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百六十一段*<そこそこの生活>2009.11.14

 この徒然草を読んでくれている知人から、友人か、後輩か、このあたりの呼び方が微妙なのだが・・・何段か前の文章を読んだ時の感想で「先生って最近貧乏だってよく書いていますよね・・・」というようなことを言われた。書いている本人はそのような気持はないのだが、第三者から指摘されれば、そのような書き方をしていたのか、とハッとする。

 もちろん富裕層でもなく、そこそこに生活しているというのが実態なので、まあ、貧乏といえば言えないこともないし、金持ちかと言われれば絶対そんなことはないので、その指摘は正しいということになる。

 このことを言った後輩は確かに漁業の網元の娘さんだから、公務員の息子の私に比べれば、確かに生まれつき金持ち・・・なのはほぼ間違いないだろう。親がそうだからそうなるのか、私の両親はあまりお金に執着がなかった。その子供の私たちも兄弟が大体その傾向だ。これが良いことか悪いことかの結論・・これは難しい。

 ないものねだりで、もう少しお金があったらと思わないこともないのだが、それは、己の商才のなさ、執着心の欠如でおそらくどうにも変れないのだろう。だろう、と書くよりも変われない!と断言した方が正しい。

 父からは駆け引きの一つもない「正義感」を受け継いだかもしれない。十代から今までずうっと変わらないのも進歩がないともいえるのだ。それに対して母親からは「世渡りの」必要性を学んだ。これはあまり私の中に定着せず、相変わらずの「世渡り下手」を続けている。「世渡り・・」この面では多くの女性が優れている。いや、すべての面で、と言いなおそう。

 「自分流」これも一人の時はいいのだが、家族がいるとなると、家族に迷惑をかけているに違いない。弁解はせいぜい飢え死にすることなく、生きて来られたのだから、これで良い!としようではないか・・・くらいの消極的説得か。

 自分の生き方だけを貫けばこの社会の中での生存は苦しくなる。それでもあまりに人に会わせすぎると自分がなくなりそうだ。人に嘘をつくよりも自分に嘘をつく生き方の方が結果的に良くない生き方なのでは・・・と思うことしきりだ。

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