徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百六十五段*<対極>2009.11.19

 対極にあるものを思った。生きているということは何なのだと思うことがある。若い時には想定しなかった。毎日が忙しく、そしてそれなりに充実して過ぎて行った。生きていくための(これは、物理的にも精神的にも、だ・・・)生活が毎日あった。つまり、具体的には仕事だ。
 この「忙しい」という状況がほとんど不快のようであり、また、救いでもある。「忙しいですか?」とか「つい、忙しくて・・・」と日常的に使うではないか。

 そうだ。「対極」の話だ。私が関わることが多いのが音楽の世界だから、この感覚は普遍的ではないかもしれない。ただし、どんな芸術や日常の出来事もいわゆる「人間」世界の中での出来事だし、人間のやっていることだ。過去のことは「やったこと」になる。

 私の指揮をする楽曲も、誰かが演奏する曲も、誰かが作りだす・・・つまり作曲する作品も、音として表現することも人間の感情のなせる行為ではないか。「感情」だと狭すぎるか。人間の「行為」といった方が正しいかも。

 そう考えれば、芸術作品の鑑賞や表現はそれほど難しくはないのだ。人間の心の動きとしてどう感じるか・・・これに尽きるのだ。と断言したいのだが、それは傲慢でもあるので、言いきることは避けよう。

 音楽の中に「形式」という語句がある。「ソナタ形式」「変奏曲形式」「フーガ」など・・・あるいは「機能和声」「無調」「旋法」とか・・・音楽を専門に学ぼうとするとこれらを一応は学ぶことになる。これは間違いではないのだろう。音楽教育に携わる人たちが音楽家としての必要なスキルとして認知してきたものだろう。さて、その講義を受ける側の意識はどうだろうか。まだ、十代の青年とも少年とも言い難い高等学校の卒業生が大学に入ったら、すでにカリキュラムがあり、それを受講して単位を取得しなければ卒業できない。

 私も、無意識に近く単位を選びそれを学んできた。今になって思えば、「形」が先か「思い」が先かの極めて原点に近いと感じるのだが、その時は夢中で単位取得のために学んだ。それは間違いではなく、その時に必要だったことだ。ただ、考え方の原点として「心」の表現のために、いろいろなテクニック、あるいは「方法」が考え出されたのだという「発想」が必要だと思う。そう思わないと、ずいぶん昔の作曲家の「ベートーヴェン」や「モーツァルト」「ブラームス」などの作曲家の作品が、200年以上も経った現代で演奏され、支持されている理由が薄くなる。
 現代でも絶大な支持を得ている作曲家の作品や画家の絵画、彫塑などは、その作家の言うに言えない「心」を表現しているからではないか。そう思えば作品へのアプローチも見えてくる。

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