徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百六十七段*<断層>2009.11.24

 先週、今週と二回続けて声楽の演奏を聴く機会に恵まれた。
 島津勲さんのリサイタルのことは、すでに徒然草に書いた。今日は日本橋公会堂での、五人の声楽家によるオータムコンサート…出演者の一人から案内をいただいた。

 なかなか楽しい演奏を味うことが出来た。ソプラノ三人、テノール一人、バリトン一人の五人が日頃の研鑽を披露するという趣旨だ。
 複数の演奏者がそれぞれ登場し、時には一人で時には二人、三人で独唱、重唱を聴かせてくれる。退屈する間もなく、それにオペラの一部分では小道具や演技も加わる。

 こんな形の演奏会もいいものだと思った。
 手頃な料金で、ある程度以上の力量を持った演奏家が、聴衆を楽しませる公演を開く。日常の一部のように気軽に演奏会に足を運ぶ。こんな日常が当たり前になれば、人生に潤いが増すというものだ。

 音楽の力量についても考えた。今日の出演者でいうと、二人が幾分、演奏に物足りなさがあった。
そんなに大きな問題でない程度だが。
 ただし、このお二人には得もいえない真摯さと温かさがあり、表現の細かな不安や不満を補うに充分だった。
 ときに、たいして力がないくせに、自信過剰か自己認識ができないのか、鼻持ちならない舞台を披露する演奏家を目にする。そのような雰囲気を微塵も感じさせない、この二人は、表現芸術のありかたを示してくれた。

 芸術…すべては人間が作りだすものだ。この当たり前のことを改めて再認識する必要があるのかも知れない。超一流の人間離れをしたような圧倒的な存在感で聴衆を魅了するアーティストの演奏を鑑賞するのも意味はあるのだろう。
 その一方で、曲の持ち味を表現できる力を持っていて、地道に研鑽を重ね、地味だが、親しみやすい演奏会に大きな意味を感じるべきだと思った。

 なぜ、そう感じたのか私にははっきりわからないのだが、日本で公演している高度な技を披露するサーカスを見て、「感心」と「感動」は似ているようで、全然違う土俵にあるのだと思うようになった。
 音楽にしろ何にしろ、見る人から高額な料金を取る興業にはどこかで、法外なお金を得ている人がいるのではないか。

 「…正直、正当な収入、暮らし振りが見失われている。裁判官や消防士、林野庁の現場にいる人々や夜の航海を監視している人など…社会になくてはならぬ人に正当な金が分配されるべきだ。この人たちが苦しいのはおかしい…」
という文章を最近目にした。大いに我が意を得た!と思った。

 今回の「段」は「断層」との名にふさわしい、連続感の希薄な文になってしまった。ほとんど進歩のない自分の文だと何回目かの再認識をした。

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