徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百六十八段*<距離感>2009.11.25

 フォーレの「パヴァ―ヌ」が聴こえる。この音楽にふさわしいのは京都の紅葉だろうか。フォーレは言うまでもなくフランスの作曲家だ。不思議に日本人の私からも距離が近く感じられる作曲家だ。「距離感」この感覚は、音楽にも人間にもなんとなく感じる「感覚」だ。

 人に感じる時もある。作品に感じることもある。作品でも様式というか演奏形態というか、同じ作曲家でもその距離感は相当違う。シューベルトが私の中ではわかりやすい作曲家だ。
 研究者ではなく、一演奏者としての私の感覚だから、あくまでも感覚でしかないのだが。

 簡単に言うとこうだ。シューベルトの演奏時間の短い作品・・・自然に歌曲とか器楽の小品になる。これは私との距離がかなり近い。聴けばいつも「うーん、なるほど・・・」という感じだ。交響曲となるとこの距離感が一気に違ってくる。乱暴な言い方をあえてすると、交響曲は七番(近頃は、研究の成果で番号は七番が使われている。昔?は八番・・・「未完成交響曲」だった。)以外は距離が遠い。シューベルトの交響曲はこの「未完成」を持って完成されたと思うくらいに、私の心の中では確信をしている。たとえば、「グレイト」と呼ばれる九番のシンフォニーでも、私には「長すぎる」としか感じられない。

 しかし、これがシューベルトの価値を下げているとは思えないし、誰も思わないだろう。偉大な作曲家といえども一人の人間だ。表現手段によって得意、不得意があっても、それこそが自然だろう。

 私の青年時代のフランス音楽へのある一定の感覚は、明るい、とか、軽いとか、の言葉で要約されていたように思う。たいしてドイツの音楽は、重厚とか、深淵とかの言葉が多く使われていた。音響的にはその傾向にあることを否定はできない。だが、音楽の本質は・・・と問われれば、国による違いは大して、「ない」のだ。

 フォーレの作品には激しい情熱と、熱い思いがあふれている。これを表現しなくて、「美しい」だけの表現に終わっていては、あまりに皮相的だ。「レクイエム」においても然りだ。
 響きの世界の奥に潜む「激しい」とも言える心の叫び・・・これを演奏であらわさなくてはならない。
 モーツァルトの「白鳥の歌」となった「レクイエム」、それから100年の時間を経過したフォーレの「レクイエム」・・・ともに「鎮魂ミサ曲」であることには違いはなく、人間の永久に解決できない事象・・・「生と死」これを音楽であらわしていることは間違いない。感覚の中でそれを感じられる演奏に携わっている私たちは他に人にはない幸福者だ。これが音楽の妙味というものだ。

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