徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百六十九段*<若者へのメッセージ>2009.11.26

 今は亡き父を思い出していた。私の記憶にある父はこういう姿だ。帰宅時間は毎日遅い。大抵お酒を飲んでの帰宅・・・子どもとゆっくり話すこともなく、しかし、私には優しかった。 怒られた覚えがないくらいなのだから。言葉は少なくでも無意識の優しさだったのか。

 終バスはすでになく、大抵誰かの車で送ってもらっていた、ような、記憶がある。内向的な母は、むろん迎えるでもなく、運転していた人は送り届けて帰ったのだろう。そんな母の姿には不満もあったのだが・・・

 働くということはどういうことなのかと、素朴に疑問に感じることがある。働くことにエネルギーを傾注すれば、物理的な時間はそっちに取られる。個人の時間は少なくなり、家庭(夫婦がいて、子どもがいるという意味だろうか)への割ける時間は少なくなる。子どもとも滅多に顔を合わせられなくなり、寝顔を見ての自己満足の世界に入る。夫婦・・・名ばかりか。一つ屋根に暮らしているから「夫婦」か。

 全く人間のやっていることはわけがわからない。わけがわからなくても乗り越えられる時が「若い時」だ。「若さ」は何とも言えない力を持っている。何の疑問もなく、か、疑問を持ちながらも、勢いでその時を乗り越えられる。か、それが若さのパワーだ。

 働いて、賃金、あるいは利益を得て、生活を維持することは否応なく必要だ。また正当な行為だ。人生の生きがいと働くことが一致していれば言うことなしだ。生きがい=働く姿・・・こうなれれば、これが最高の状態だろう。

 クラシック音楽という表現行為に携わる一人として、もし、=にすることが難しいとしたら、食べるために働くことと、「音楽」するという行為を両立させるのが、人生として目指す道なのかと思う。この文は自分のために書いているのではないのだ。いま「若者」という年代に生きている人へのメッセージだ。

 いつも「音楽」を忘れなかったこと、それも受動的に楽しむのでなく、表現する側にいたこと、これは学校経営の背骨にも当たるものでもあり、私が「生きている」証でもあった。自分で「生きている」という実感のない人生や時間を過ごすことがいかに無意味なことか。ちょっと考えてもわかるではないか。そう、昨日、大手企業に勤務してはいても、そして企業の中で立派に仕事をこなし、それでも、一人はマンドリン団体の指揮者として、一人は吹奏楽団の指揮者として活動をしている人との懇親の時間を持っていた。物理的に企業という利潤追求の世界に生きており、しかしそれでも「音楽」という精神活動の世界にも生きているこの二人の男性に拍手喝采だ。

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