徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百八十段*<「ねむの花」の団員>2009.12.17

 ねむの花(女声合唱団の名称)の団員が時々ユニークなことをホームページに書いている。今日更新されていた文章は面白かった。人間の感じ方はいろいろあって、それだからこそ、人間が好きになる。その人の心根が善意の持ち主ならば、どんなに考え方や感じ方が違っていても受容できる。

 指揮者が団員から誉められると、いささか眉唾ものだ。身内には評価が甘くなるのだから。私にあるのは「熱」だけだと言ってもいい。

 時空を超えた、そのようなプログラミングをしてみて、感じたこと。音楽での「時空の旅」は堪えられない喜びだということだ。曲一曲で何十年もの時を経ることができるのだ。モーツァルトとフォーレのレクイエムを演奏すれば、97年(約100年)の時が流れる。同じ死者のためのミサ曲だが、どんな風に変わるのか。国柄によって、民族によってどう違ってくるのか。

 Nコンの課題曲だって、1965年から2009年までを一気に駆け抜ける。その年数・・・なんと44年間だ。そして、時の経過に関係なくそれぞれに感動するし、曲そのものの存在に納得、だ。100年や200年、あるいはもっと経っても人の悲しみや、喜びや、怒りや、優しさや憧れには変わりがないのだと思う。

 私は、ねむの花のメンバー構成が好きだ。少ない人数なのに年齢でいうと、最年少から最長老を比べると、50年くらいの差はあるだろう。そして、リーダーはその最年少に近い人間だ。これが、ほかの合唱団にはない特徴であり、指揮をする私にとっての魅力でもある。

 指揮者として関わる団体には、「派閥」的なものを私は認めない。年功序列も認めない。努力の差は大いに認める。その人が自分の人生の持ち時間の中で、どれくらい音楽をするという行為にかけることができるか。これは大きな問題だ。深い精神活動の最たるものの音楽表現に携わるのだ。自己は捨てねばなるまい。曲の表現や解釈では、理論的なアナリーゼと本能的な感覚、それに、作曲家へのあるいは曲への「献身」がなければ、自己満足の世界に落ち込む。これは、戒めなければならない。

 ほんとは「自己中心的」な人間が音楽をするときだけは「自己中」を捨てる。これが、深い意味を持つのだ。それが、なんとなくでも、しっかりとした思想に裏付けされたものでも、どっちでもいいのだが、その「献身」を感じられる人の集まり・・・つまり、集団・・・「・・・団」であることがお客さんに「至福」の時を味わってもらえる「団」なのだ。
 今度のニューイヤーコンサートでの「ねむの花」はどんな風に聴衆に迫れるのだろうか。

 *女声合唱団ねむの花HP…http://nemunohana.com

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