徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百八十七段*<原点>2010.1.1

 元旦の風景が変わった。家の近くに比較的大きなショッピングセンターがある。大きな駐車場完備なのだが、今日は昼間から駐車場が一杯だった。元旦からの買い物客か、食事の客か、ウィンドウショッピングの人か、とにかく人が多かった。駐車場にも路上にも。

 電車は空いていた。元旦だけはあまり人が動かないと思い込んでいた私の認識が古いのだと改めて思った。こんな元旦の風景は何年も前かららしい。正月三が日、お店は休みというなかで育った私だ。あるスーパーが何年か前に元日営業を打ち出した時にはそんなに需要があるのかと半信半疑だったが、これも今では定着したようだ。百貨店でも2日から営業というところが多いと聞く。

 正月というとなんとなくうだうだ、と過ごし、本格的に活動を開始するのは松が明けてから、つまり7日くらいという感覚は私の子どもの頃のことだ。現代人の方が、かなり活発になったということか。経済状況が悪いというのに元旦から動く人が多いのは私には理解しにくいのだが、自分と世間の感覚が遊離してしまっているようで不安でもある。年末の上野の「あめや横丁」では、人出は多いのだが財布のひもは固いと店主が言っていた。

 何をもって現在の状況を推し量ればいいのか、なかなか難しい時代になった。

 風景といえば、駅の待合室に(寒いので電車待ち用に待合室にはエアコンが入れてあり温かく、冬には待合室に入る人が多い)9人の人が座っていたので観察すると、5人が携帯の画面を見ていて、2人がイヤフォンで何かを聴いていて、2人は携帯用のゲーム機の画面を見ていて・・・という状況で、誰も本を読んでいる人がいなかった。確かに自分も文庫本を持って歩くことが少なくなっている。

 生活のスピード感が速くなり、享受できる文化の違いを考えると、価値観も自ずと違ってきているのだろう。演奏会だって最近は新年の1月2日から始まるのが当たり前だ。少なくとも一週間から十日くらいの先取りのように私には感じる。
 忙しく働いても賃金は高くはなってないようだし、何よりも通勤電車の遅い時間の乗客の様子を見ると疲れきっているという気がしてならない。そして私の教え子たちも大学生までは元気なのだが、社会人になると途端に仕事に追われる一杯いっぱいの様子になってくる。

 私が教師になりたての頃は、病気や出産で休む教師はあっても、精神疾患での休職は滅多に見なかった。皆無といっていいだろう。ところが国の調査では、教員の休職の理由で、精神疾患・・・これが確実に増えているという新聞報道を読んだ。子どもを教育する学校現場でそうなのだから、数字を追う企業社会ではもっと厳しいのだろう。

 人間が仕事に負けては仕事をしている意味がない。仕事はもともと人間が生きるために生まれてきたものであるはずなのだ。人間のために生み出した組織や仕事が、逆に人間性を阻害しているとしたら本末転倒だ。人間のために発明したロボットに、いつの間にか人間が支配されるようなものだ。
 物事には必ず原点があるはずなのだ。事実が進んでいっても時々はその原点を見つめ直すこと、これが人間社会には必須のことだと私は思う。
 原点を忘れた時間が長くなれば待っているのは悲劇だけだろう。

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