徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*四百段*<様々な想い・・・県民合唱団のレクイエム>2010.2.15

 県民合唱団の演奏会が近づいてきた。二百人を超える大人数だ。予想はしていたが、16分音符の連続のような、スピード感のある細かな音の動きには、反応がやや鈍い。ゆったりとした重厚なところは、人数の効果が著しい。この、細かな動きをいかにシャープに表現できるか・・・ここが、最後の練習の課題だ。

 音とりはそんなに困難さはないだろう。よく知られているモーツァルトとフォーレのレクイエムなのだから。表現の拠り所をひとつにまとめること、自由自在に歌えるまで曲を歌い込むこと、この二つが本番前日までより高い目標を掲げて努力をするべき事柄だ。人数が多ければ技術の差は大きくある。演奏会や曲への想いも様々だ。様々であることを承知で、なおかつ気持ちと技術をひとつにまとめながら、よりよいものを目指す。言うや易い、しかし、実現には多くのエネルギーが必要だ。

 この企画は15年前に始まった。演奏回数で言うと16回目の演奏会になる。モーツァルトのレクイエムに関しては、15年前と全く同じ選曲だ。フォーレとの組み合わせでは10年ぶり・・・いずれにしても印象深い二つの曲だ。15年前、1月に阪神淡路大震災が勃発、テレビの高速道路の倒壊画面を現実とは思えずに見ていた自分を思い出す。

 約一ヶ月経ったレクイエムの公演時でさえも、犠牲者の数が確定していなかった。五千数百人の犠牲者への鎮魂の祈りを込めた公演になった。
 15年の時間が過ぎても、その時の演奏に携わったものとしての想いは、今も忘れずに大切にしたい。いま、命のあることに改めて感謝をし、亡くなられた方へはまさしく鎮魂の思いを込めて本番に臨むことが、人としての最低の義務だと本番を前にして思う。

 声楽のソリストは、オーデションで選ばれた人たちだ。20歳代の人もいる。その人たちは15年前だと10歳程度だ。震災の印象は薄いだろう。合唱団員には15年前にも歌った人たちが何人もいる。もちろん団員には若い人もいる。経験の違いはおのずと明らかだ。それでも、ともに舞台を踏んで、ともに想いを共有する。この意味も大きい。

 そうなのだ。公募の県民合唱団の公演には、その時でなければあり得ない出会いがある。偶然の出会いでの人と一緒に舞台を踏むということの意味があるのだ。見知らぬ人が見知らぬ人とともに、練習を重ね、本番を迎え、演奏会が終われば、何事もなかったかのように散り散りに去る。これこそが人間の行為の原点だろうし、生きていることの一つの証ではないか。瞬間に生きる瞬間は何事にも代えがたい有難さだ。また、瞬間に消える行為だと思えば、何にしても虚しい・・・こんな風に考えられるのも県民合唱団に関われるからこそ、だ。己の思考を否応なく深くしてくれるこの合唱団の公演には「感謝」あるのみだ。



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