指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百四段*<選曲>2010.3.3

 偶然か、モーツァルトのレクイエムの一部を耳にすることが多い最近だ。バンクーバーオリンピックの女子フィギュアスケートでこの曲を使っていた選手がいた。ドラマでも耳にした。ヴェルディにしてもモーツァルトにしても、使われる部分は「怒りの日」の部分が多い。モーツァルトでは、書き始めて8小節で筆を折った「ラクリモサ」涙の日・・・がそれに加わる。

 最初にこの部分だけを聴いた時の衝撃は忘れられない。高校生の時だった。不思議なもので、モーツァルトは私にとって、聴くときには何の障害もないのだが、表現するときには、途端に、壁ができる。これは自分が成長しきっていないのかもしれないし、「相性」なのかも知れない。大作曲家モーツァルト先生に対して相性などと思うこと自体がおこがましいのだが。

 フィギュアスケートには曲が使われる。曲の選択に時々疑問に思うことがある。日本の選手が「仮面舞踏会」と「鐘」を使っていた。私は選曲ミスだと思った。単純だ。この年齢の選手にこの二曲はふさわしくないと感じたからだ。「007・ジェームス・ボンド」は正解だ。モーツァルトの「レクイエム」これもフィギュアには適さないだろう。誰がどんな基準で選曲しているのかはわからないが、曲も重要な要素だと思うのだが、どうなのだろうか。

 一時期、シンクロでとりわけ日本らしさを強調した曲を用いていた時があった。(今でも、同じか。)日本だからといって、「鼓」の音を使っても国際大会では何の役にも立たないだろうに、と思った。日本より強い国では、極めてオーソドックスな選曲だった。伝統的な日本音楽がグローバルになるのならとっくに世界中で広まっている。その国の音楽はどの国にでもあり、それは大いに文化として認めるべきだし、優れているのも間違いないのだ。しかし、それがすべて世界で認められるかというと現実はそうではない。このことを認識せずに、自国の音楽を用いるだけなら、単なる自己満足の世界だろう。競技でなければ、それはありえても、競技である以上勝つことも大事な要素だ。だとしたら自己満足でなく、勝つための選曲もあるのでは、と強く感じた今回のオリンピックではあった。

 競技団体は、国からのお金の援助を期待しているのだとも感じた。それは正しい発想なのか。共産主義の国ではない日本では、国が関与することは、なるべく少なく、資本主義社会の基本となる企業が大きな力を発揮するようなシステムを考えるべきだ。今回の日本のオリンピックでのふるわない成績を国の政策のせいにするのでは、あまりにも短絡的だ。
 選手団と役員団の数が逆転しているようでは、誰でも疑問に思うだろう。選手には手厚く、役員団は自費でオリンピックに随行する、これがあるべき姿だろうと思った。

 自己満足と自分の想いと客観性・・・これの判断は難しい。

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