指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百十六段*<ピリオド奏法>2010.4.18

 パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマーフィルハーモニーの演奏を聴く。ピリオド奏法での演奏にどうも納得が行かない。ピリオド奏法での指揮をしたことのない私だからか。ピリオド奏法・・・いつのころからか、この語句を目にすることが多くなった。要するに、作曲家が作曲した当時の演奏を忠実に再現しようということだと考えるのだが。

 古楽器を使っての演奏がもてはやされるようになってからの流行り言葉とも言えなくはない。近代の楽器を使っても、このピリオド奏法で演奏されると私の頭は疑問符で一杯になる。このような演奏を否定するつもりはないのだ。大体、古楽器の演奏やピリオド奏法での演奏には、熱のこもった演奏が多く、その姿勢には聴いているだけの者も心が熱くなる。

 異論を唱えるとすれば、概してテンポが速く、遅いところも「速く」といった余裕のない演奏に対してだ。ベートーヴェンの曲がこの演奏の洗礼を受けることが多い。なんとなく受け入れていたベートーヴェンの演奏を聴きなれた人には新鮮に聞こえることは間違いない。

 一瞬の興奮が音楽の神髄だと言ってしまえば、そのとおりだと否定はできない。人類は(これは、大げさな言い方だ・・・)いろいろな分野で改良を重ね、その時その時によりよいものを目指しての努力を重ねてきた。音楽の分野でもそれは同じことで、音楽を表現するための媒体・・・つまり、演奏法の工夫や研究、楽器の開発、改良の積み重ねの結果の現代の音楽表現だ。ピリオド奏法での演奏への絶対的賛美はその事実を覆すものとも思えてならない。

 もっとも、音楽を聴き手のものだと思えば、その時代の聴き手がそのような音楽表現を求めているのだと思えないこともない。ただ、このことは、少しずつ様々な分野で改善を加えて、より良きものを追い求めようとする人間の行為にいささかの逆行をするものだという認識も必要だろう。オリンピックの記録が、ほんの0.001秒の少しだけでも短縮される。それは人間の限りない能力を追い求める姿勢として称えるべきものだろうし、あるべき姿だとも思う。

 冒頭に書いたコンビでの演奏は、評論家や音楽愛好者に絶賛されている。あえて、そんな中でのこの文章だ。批判が多いのかとも予想している。ベートーヴェンの交響曲第8番と第9番の演奏が終わった。この演奏は、演奏の先が読めて、見えないものへの期待感が聴いているうちに少しずつ薄れてくる。表現のおおよその予想がついてしまう。それでも、聴いている人たちが万雷の拍手を贈る。冷めたモダン楽器の演奏よりは心を打つが、なんとなく演奏者の自己満足の世界に感じてしまうのは、多分・・・私のような少数の人間だろう。

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