指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百二十段*<人間の感じ方>2010.4.30

 落語や講談の場面を見ていると、会場の大きさがちょうどよいことを感じないだろうか。考えてみれば、講談、落語は漫才とも違い、一人の人が「話芸」を繰り広げる場所だ。大きすぎてはお客に「芸」が十分に伝わらないだろうし、距離と感動は反比例するのも事実だ。つまり「生」の魅力は”リアル感”だと思えば、距離があまりに離れすぎていてはリアルさが少なくなる。適当な広さと適当な観客数が言うに言えない温かい雰囲気を醸し出す。

 以前は、大きなホールでの演奏会が、グレードの高さを物語っているような気がしていた時もあったのだが、今は違う。時間と場所の共感を、聴きに来てくれた人達と同時に感じることのできるホールでの演奏会が、終わった後の満足感ということを考えると一番大切な要素になってきた。

 表層的な価値観よりも内層的な価値観に変わってきたと自分で思えば、かなりの「精神」の進歩かな・・・と思う。

 「黒田節」という九州地方(熊本県か。)の民謡がある。「黒田節」の題名の意味がわからなかったのだが、講談を聴いてわかった。黒田長政の家来が、福島正則との「酒」を飲め、飲めない、のやり取りのうちに、福島正則が太閤秀吉からもらった「槍」を黒田長政の家来が自分のものにせしめた。という話から生まれた民謡だとか。「酒は 飲め飲め 飲むならば 日のもと一の この 槍を・・・」の歌詞の意味が初めて納得できた。

 日本の音楽と、西洋の音楽(この表現は古めかしい。いい言葉が思い浮かばない。)の違いを「笑い」とか「癒し」とか「安堵感」とかで見るとわかりやすい。いまだに「クラシック音楽」=「わかりにくい」「難しい」という人もいる。「庶民」と称される我々が、何らかの対価を払い舞台芸術を見に行くとすれば、緊張感も有り、哀愁も有り、涙も有り、笑いも有り・・・というものを見たくなるのも、ある意味で当然だ。

 やっぱり、ベートーヴェンの交響曲を聴いて「笑い」を期待するのは無理だろう。突き詰めた人間の「精神」を感じて、その響きが自分の「魂」に呼応してくれる喜びを感じること。これを実感できればベートーヴェンに「ハマる」のだが。「運命」の四つの「動機」を初めて聴いて、その発展性と意外性、あるいは「隠れミッキー」のようなものを感じるのは並大抵ではないようにも思える。音楽には「隠れミッキー」があるのだが、ディズニーリゾートやディズニーホテルで、「隠れミッキー」を探すことと同じくらい難しいことかもしれない。

 「ミッキー」といえば、着ぐるみだと言われて怒る人もいれば(つまり、それほどミッキーが好きだということだ。)たまに「ミッキー」を嫌う人がいて・・・そう思えば、人間の感じ方は今更ながらに様々だと思える。

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