指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百二十一段*<O先生のご逝去>2010.5.14

 ホームページが開けなくなり、何日間かの空白が否応なく生じてしまった。ようやく回復した。原因は不明のままだが。
 この空白の期間に、O先生のご逝去を知ることとなった。O先生、この徒然草で何回も書かせていただいた名前だ。校長、教育長、県教育事務所所長を歴任された先生なので、実名では書かなかった。小高 正先生だ。

 小高 正先生が習志野市立第一中学校に校長として着任されてから、2年間そのもとで勤務をすることができた。船橋地方出張所の指導室長、その後に東葛飾地方出張所の所長を経ての習志野一中への赴任だった。当時の柏市教育長の古谷武雄先生から小高先生の着任を知らされていた私は、歓迎の方法を考え、着任と同時に管弦楽団の校歌演奏を思いついた。東葛飾地方の教育長数人とともに、小高先生が来られた。何故か黒塗りの車の隊列が印象に残っている。

 校長に着任されてからのご苦労は、察して余りある。市川市が教員としてのスタートであり、習志野市は初めての土地だ。どこの社会でも、地元や地域の派閥などがあり、教育の世界も例外ではない。(いつまで経っても改まらない・・・弊害の一つだ。) しかし、その中で縦横無尽の活躍をされた。特に小高先生に心酔した教員は数多く、わたしもその一人だ。泰然自若、頼りがいのある校長先生だった。ある時、学校方針の中で、疑問に思ったことがあり、校長室に抗議に行った。入室して、言われた言葉が「やっぱり、来たか・・・」の一言だった。抗議の出鼻をくじかれ、大した抗議はできず、逆に諭されて、気分良く校長室を出た。にこにこ笑って出迎えられ、「やっぱり、来たか・・・」では勝負はあったも同然だ。

 超 無理な練習をしていたオーケストラ部にも大きな目で見てくださった。日本一になるにはそれ相応のことをしなければなれない、との理解だ。そのとおりなのだが、中には批判をする教師や保護者もおり、その矢面に全部立ってくださった。自分が万一校長職に着いたらこんな校長先生になりたいと思った。
 小高先生が2年で他の学校に去り、また、退職をされ、やがて教育長になられるのだが、その間、ずうっとご交誼をいただいた。「ねぎの会」という親睦会をもたれ、わたしがその幹事役だった。

 わたしが今日でも熱い思いをもって語れる何人かの先生のお一人、小高先生が亡くなってしまわれた。喪失感が否応なく深くなる。古谷武雄先生の時もそうなのだが、小高先生とも亡くなる少し前に電話で話をすることができた。まだまだお元気で30分も話ができたのに。人間の死はあっという間に訪れる。改めてそう思った。心の支えがまた一つ無くなってしまった。

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