指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百三十一段*<応援>2010.6.12

 サッカー・ワールドカップが始まった。毎回思うことだが、世界のレベルは相変わらず高く、日本が試合をしていないゲームでも、スピードや耐久力、メンタリティなど、様々なことを感じ、眼を離せない。特にサッカーファンではない者が見ていても心が躍るのだから、ファンにはたまらない魅力なのだろうと思った。

 一つの指揮が終わると、少しだけ楽譜の整理をする。指揮法のバッグ、オケのバッグ、合唱のバッグと、三つに分けてその時必要な楽譜を持ち歩く。この中に当てはまらないものは、また別のバッグに入れることになる。「やさしい 指揮法」のような本を見つけた。「指揮」という行為は不思議な存在だ。まえがきに、指揮法の教本というと専門的すぎて、初めの段階であきらめる人が多い、と書かれていた。確かにそうなのだろう。

 音楽科の教師も不思議な存在だと思う。音楽大学(ひとくくりで、広くまとめた。)に入学し、教員免許を所得して、教員採用試験に合格して教師になる。音楽大学在学中には、ピアノやら管楽器やら声楽やら、何かを専攻して学び、卒業する。「教育音楽」系の学部の卒業生もほぼ同じだ。教師になると、大学で学んできた専攻をそのまま出す機会はごくまれだ。想像しても、声楽専攻の教師だからといって、自分のソロを児童・生徒にしょっちゅう聴かせることはできないことは明らかだ。ピアノ専攻だから、ピアノを弾いていれば教師が務まるわけでもなく、専攻が違うので合唱(吹奏楽、管弦楽)のことはわかりませんでは、現場の教師は務まらない。

 ところが「指揮」だけは、特に専攻で学んでいなくても、平気で子どもたちの前に立てる。それ自体が不思議なのだが、あまり、不思議だと思わない人が多い(ように、私は感じる)。
 身振り、手振り、顔の表情、いろいろな技術を駆使しての指揮だから、いろいろ学ばなければならないことが多いはずなのだが、自分で音を出す必要はなく、身振り、手振りで何とかできてしまうからか、教師の大部分は自己流で、腕をふるう。振られている子どもは口には出せなくても、なんとなく「?」と感じながらの演奏では、少々どころか大きなマイナスだと思うのは一部の人だけらしい。


 度の過ぎた応援も客観的に見ると大いに迷惑だと思う。南アフリカの競技場では、吹奏楽器(名前を私は知らないのだが)を試合中、ずうっと吹き続ける。3万人、4万人収容の競技場で、かなりの人がその楽器を吹くのだから、音が相当でかい。試合に集中することも難しく、あれでは監督の声も聴こえないだろうし、うるさいだけ、と感じるのは私だけだろうか。自分ももちろん含めてだが、人間は、常に自分を中心に物事をとらえ、己の行動を決めるもののようだ。表面的には静かでも、胸に熱い思いを込めた応援というのはできないものか。
 というのは、日本人的感覚だけでしかないのかも知れない。日本の試合の中継では意味もなく、贔屓の引き倒しのような、大げさな放送がされるのだろうと予想ができ、もし、勝てば大騒ぎ、負ければ冷たい・・・では、選手が気の毒にも思える。

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