指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百三十二段*<素材>2010.6.18

 葉生姜を食べた。洗って味噌をつけるだけ、の”料理”とは言えないものなのだが、これが、実にうまい。前提は、甘くて美味しい、これがないと「うまい」と口に出ない。ラッキョウの実にも同じことが言える。

 生姜やラッキョウで、辛みの強いものは、味覚として駄目だ。辛みで本来の味を味わえなくなる。このへんが、同じ食品でも微妙に感覚が違ってくる。

 旨味や甘み・・・この塩梅がうまくできた食品は正しく「美味い。」

 私は、美味い生姜やエシャレットを作る能力に欠ける。というか、無いに等しい。提供してもらわなければ味わえない。音楽で言えば、作曲の力がないということだ。あるのは、素材をどう生かすか・・・それだけだ。

 中学校の時の恩師が、5日の田三郎作品集(浜離宮朝日ホール)に来て下さった。田三郎先生には大学時代「和声楽」を教わったとのこと。演奏全体を評価してくださったのだが、合唱の演奏会で、ピアニストを激賞されていた。これには、ピアニストを依頼した私もうれしくなった。合唱の演奏でのピアニスト役目・・・これには諸説あるようだ。私のように、ピアノ協奏曲のピアノのようにと望む指揮者もいれば、黒子のように・・・と望む指揮者もいる。

 「美音」、これはどうしても表現者として必須だろう。楽器や声楽などの媒体の違いはあっても。これが伴わなくてはまず生理的に満足しない。指揮に合わせられないピアニスト・・・これも論外だ。(結構、たくさん見かける。)5日のピアニストは本当に音楽を表現してくれた。まだ、20代の若いピアニストなのに。

 食べ物も「素材」、音楽も「素材」か。決め手は・・・。断言はできないが、ある真実が厳然としてあるように思える。一方、現実の社会は「虚構」と「真実」が入りまぎれる社会だ。表現者としての立ち位置は難しい。

 四百三十一段へ   四百三十三段へ