指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百三十六段*<ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番>2010.7.15

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、ブレンデルのピアノとアバド指揮・ルツェルン祝祭管弦楽団の演奏に心を奪われる。胃がんを克服した後のアバド・・・やせてしまってはいるが、気合十分の指揮だ。コンサートマスターがベルリンのブラッヒャー、クラリネットに、サビーネ・マイヤーの顔が見える。その時に編成される臨時編成のオケなのだが、アバドによほど信頼を寄せているのだろう。心のこもった演奏だと一目で分かる。技術の卓越していることを超えた魂の音楽と感じた。

 こんな演奏を目にし、耳にすることができるのは、至高の喜びとも言える。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は3番、4番、5番が抜きん出て秀逸だ。1番、2番がやや習作の趣があるのに比べて、3番からは、確固としたベートーヴェンの姿が浮かんでくる。才能を十分に発揮するだけの技法を身につけての自信作とも思える。

 交響曲第3番「英雄」にもあふれる才能を感ぜずにはいられない。いくつものやりたいことがあり、それを譜面に表しているのだが、それでも足りない・・・そんなイメージだ。

 ブレンデルのピアノ・・・モーツァルトを弾くときとはまた違う鉄のような意志力を秘めている。すべての迷いを払った表現とでも言おうか。繊細に表現をしているのに、それがひ弱さとか、神経質ではなく、考えすぎでもなく、きわめて自然に聞こえる。無造作とは違う、実は、計算されている表現なのだろうにそれを微塵も感じさせない。

 アルゲリッチのソロ、アバドの指揮、マーラーチェンバーオケの演奏も割目の演奏なのだが、ところどころに演奏者の計算が見え隠れするのが、魅力でもあり、また底の浅さも感じてしまう。そう思うと、このブレンデル・アバド・ルツェルン祝祭の演奏は、究極の表現だとも思える。

 来月の指揮の曲だ。この演奏には遠く及ばないとしても、その精神だけは負けないように指揮をしたい。

 今、夏のブラームスの交響曲シリーズ、早春のベートーヴェンシリーズに取り組んでいるのだが、ブラームスとベートーヴェンの違いを今更ながらに思ってしまった。ベートーヴェンを敬愛してやまなかったブラームスだが、ベートーヴェンを超えることはなかった。シューベルトも同様だ。それは、二人の作曲家を低く見ているということではない。二人の天才とも言える作曲家は師を越えることなど考えてもなっただろうし、超えようとしても超えられないこともあるのだし、ベートーヴェンとは違う面で不世出の作曲家として存在してくれていることだけで、私にはありがたいことだ。

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