指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百四十一段*<表現者>2010.8.23

 ブラームス・交響曲第3番をメインにしての演奏会が終わった。この曲はなかなかの強ものだった。

強い拍と弱い拍とが規則性がなく登場する。第1楽章が厳しかった。細かく振ってしまった部分もあり、その意味では音楽を大きく捉えての指揮ができなかった。指揮とはそのようなものだともいえる。つまり、自分で音を出せるわけではないので、演奏者との呼吸でどのように指揮をするかが決まるところがある。

 音楽の表現は不思議なことの積み重ねによって成立する。ソロの楽器の演奏はまた別だ。オーケストラでの表現と限定しよう。
 たとえば、演奏者のレベルが高いと、練習をし過ぎないほうが、本番では緊張感あふれる密度の濃い演奏をしてくれることが多い。

 一曲への練習時間をたっぷり取った子どもたちの演奏と大人の演奏では、曲は同じでも、出来上がるものが違う。これもまた事実だ。
 極限に近い練習を重ねて、音の羅列では大人以上の力を発揮する子どもたちだが、そこは人生経験や、即物的に言うと骨格やら体格やら、肉付きやら、いろいろな要素が絡み合うのか、まだまだの感を持つことは否めない。

 人間や音楽は絶対の法則がないことが魅力だ。ひとつの現象への評価や価値観だって、かなりの違いを見せる。好きな音楽も人によって相当の違いがある。本物の心や気をどう表現するか。本物とは、聴く人に媚びない、物事の本質を追求した中で生まれる。

 この評価は、かなり難しい。芸術活動と世間の評価は必ずしも同じではないのだろう。奇人と呼ばれたゴッホやベートーヴェンがひとつの見本だ。
 現在では万人に評価されている芸術家も、本人が生きていたときには、それほどの評価は受けてない人も頭に浮かぶ。

 創作者よりも表現者の存在の持続性にも思いを馳せる。生まれた芸術を媒体として表現する役割への限界を思う。

 指揮者では「帝王」と呼称されていたヘルベルト・フォン・カラヤンのことを考える。創作者である作曲家は永遠に生き、表現者の役割を担う指揮者は、時代の寵児ともてはやされることがあっても、その存在は危うい。これは、人間の記憶や、観点の違いを考えれば至極当然なことかもしれない。表現者の一人としては、さびしいことではあるが。
 時間と共に消えてゆく音楽の世界だ。それを承知での音楽表現への取り組みだと今更ながらに認識を新たにした。



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