指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百四十四段*<音楽会…つれづれなるままに>2010.10.5

 10月も一週間が過ぎようとしている。夏の猛暑の余韻か、今一つ秋の季節を素直に感じられない。頭に浮かぶ音楽を反芻してみる。意味もなく、モーツァルトのピアノ協奏曲の一部分だったり…しかし、次にやる曲は同じモーツァルトでも違う協奏曲なのだ。
 季節の終わりはよくわからずに、新しい季節を感じていつの間にか季節が変わったことを思う。どうも、これが人間の感覚のようだ。今年は今までになく季節の感覚を失っている。

 この文の前に、新幹線の中で文章を書いていた。残念ながらモバイルPCは持っていないので、携帯での親指中心での作業となる。効率が良くない。画面全体を見ることができずに、だらだらと文字を記していくということが、文章がまとまらない原因の大きなものだ。ウイルコムのキーボード仕様のPHSを手放したのが少し悔やまれる。案の定、読み返してみても意味不明の内容だった。当然、没だ。

 夕方の太陽が山の間に沈む瞬間がきれいだった、とか、車体に面白い絵が描かれている電車がホームに入ってきた、とか、新幹線と在来線の車両の違いとか、乗っている人の雰囲気が違うとか、本当に取りとめのないものだ。この段のようにいつも取りとめのない文章なのだが、さらに輪をかけていた。

 音楽会の雰囲気が素晴らしかった。日本のいたるところに音楽あり・・・と実感した。自分もスクールオーケストラを見てきたので、見慣れている光景ではあるが、それでも、小学生や中学生が弦楽合奏をしているなんて、なんとうれしい光景か。管楽器の合奏とはまた違う雰囲気が舞台にあふれる。そして、指導をする先生方の姿だ。感心するしかないだろう。音楽の専門の先生でなくても、やむを得ず音楽の活動の指導者にならなくてはならなくなる。そんな先生は想像を超える苦労があるのだろうと察するに余りある。

 尾崎喜八の詩の中に、音楽室でモーツァルトを弾いている先生の姿を詠んだものがある。背景にはアルプスの山々か・・・。生き生きとした様子とモーツァルトのピアノソナタのロンドが目に浮かぶようだ。音楽会の講師や審査を務めるときにいつも思う。専門家の目で見るだけの講評は止めようと。専門家として、より良くなるための助言は述べても、足りないところをとりわけあげつらうことはしない。してはいけないのだと思う。演奏を舞台で披露するまでの、私には見えない軌跡があるはずなのだ。演奏をする子どもたち、指導をされる先生たちに、今よりももっと意欲を持ってもらえるような、講評をしてゆきたい。

 人と人とが偶然に音楽に出会い、ともに「演奏」という行為を行う。貴重な時間と空間とエネルギーを使っての尊い営みだ。孜孜として音楽に取り組む。そのことだけでも充分幸せだし、生きる甲斐になるはずだ。

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