指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百五十段*<ニューアーティスト・コンチェルトシリーズ>2010.11.5

 ニューアーティストコンチェルトシリーズの始まりは、奇しくも「M」の頭文字で始まる作曲家の作品集となった。「M」から始まる三大作曲家といったら、やはりモーツァルト、メンデルスゾーン、マーラーだろうか。(三大「B」と言うとバッハ、ベートーヴェン、ブラームス・・・人によってはブルックナー)
 それぞれ、二人目までは誰もが異論はないだろう。(ムソルグスキーやメシアンも三人目以降の候補に挙げられるかも知れない。)

 モーツァルトの作品から、フルート協奏曲、ピアノ協奏曲でお楽しみいただく。モーツァルトは多作家だ。同時期に活躍していたハイドンには及ばないにしても、(ハイドンが何曲作曲したかは、わからないくらいに多い。交響曲だけでも105曲と言われる。)モーツァルトの作曲数は700曲以上と、35年の生涯を考えれば絶大な数の作品を数える。(ハイドンは77年の生涯だ。)
 交響曲の数では41曲と105曲だから数ではハイドンの半分以下だが、曲の輝きは、はるかにモーツァルトの曲が勝る。(数だけでの比較だと、ベートーヴェンが9曲、シューベルトが9曲、シューマン4曲、ブラームスが4曲、マーラーが9曲、チャイコフスキーが6曲だから、41曲でも傑出した数だ。)

 さて、第1ステージはフルート協奏曲の第2番、ピアノ協奏曲の第26番がプログラムとなる。
 ともに、名曲中の名曲だし、親しみやすく、ファンの多い曲と言える。はじめて聴く人は、すぐに虜になるだろう。そして、よく知っている人にとっては、ソリストの演奏自体に興味がわくだろう。

 フルート協奏曲第2番の原曲はオーボエ協奏曲だということは有名な話だ。現在では同じように演奏され、両方ともに愛されている。録音数や演奏回数で言うと、フルートでの演奏の方を多く聴くことができる。作品を委嘱した「ドゥジャン」は短い曲を依頼したようだが、出来上がった作品は3楽章、20分を超える立派なもので、依頼主の「ドゥジャン」が困惑したのではというエピソードがある。金のフルートで奏でるキラキラとした音が舞い踊るかのような、至福のひと時を過ごしていただきたい。

 ピアノ協奏曲第26番は「戴冠式」と称される。神聖ローマ皇帝レオポルド2世の戴冠式の式典で演奏されたことにちなみそのような愛称がついている。その時が1790年、モーツァルトの没する1年前だ。絶筆のピアノ協奏曲が第27番だから、わずかひとつ前の作品になる。フリーの作曲家になっていたモーツァルトは、このころ収入が減り、借金に苦しんでいた。そして、翌年からは、体調不良にも悩まされることになる。17902月に新皇帝の戴冠式でピアノを弾き、私費を投じての演奏会も開催したが、客は入らず赤字の演奏会だった。110カ月後の死をモーツァルト自身は予感していたのだろうか。この曲は愛称にふさわしく、二長調の全3楽章、演奏時間も34分という堂々とした曲となっている。

 モーツァルトの二つの協奏曲をお聴きいただいた後は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調だ。三大ヴァイオリン協奏曲というたとえで言うならば、当然その中の一曲だ。(他には、ベートーヴェン、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲があげられる。また、人によってはブラームスというかもしれない。)

 なんといっても、冒頭からヴァイオリンソロで奏でられる甘美な第1主題の旋律が印象的だ。私は、中学生になって音楽の授業でこの曲を知った。この主題を授業中にみんなで縦笛や横笛で吹いたことを鮮明に覚えている。(当時はリコーダーとは呼んで無かったような気がする。)そして、自分で初めて買ったレコードの一枚がこの曲だ。(他にもう一枚・・・未完成交響曲)平屋で二間しかない借家で、坊主頭の少年がなけなしの小遣いで買ったモノラルレコードを、貧弱なラジオのスピーカーから聴いていた。心は躍っていた。

 今でも、この冒頭だけは聴いても、指揮をしても胸に詰まるものがある。何度か指揮を重ねた曲だが、今をときめくヴァイオリニスト・漆原朝子さんが中学生の時にソロを弾いてくれたことを有難く、さらに懐かしく思い出される。三つの楽章、演奏時間25分強の曲だ。各楽章の解説は不要だろう。三つの楽章が切れ目なく続けて演奏される。

 3人のソリストは、ニューアーティストと称するように若い演奏家だ。音楽の表現は不思議なもので、その時その時の魅力がある。若いとき、円熟したとき、老成したとき・・・とそれぞれに魅力が違ってくる。どの時期の演奏表現がベストなのかは一概には言えない。同じ曲を、年数を置いて録音する演奏家の演奏を比較してみるとそのことが良くわかる。生硬な若さの演奏、安定した円熟期の演奏、枯淡の境地に達したかの演奏、どれも捨てがたい。

 演奏は「一期一会・一音」だ。ソリストとの出会い、バックアップするオケの演奏、客席の皆様、すべてが、偶然であり、必然であるとも言える時間の共有だ。演奏の舞台に立てることに感謝をしながらの指揮としたい。

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