指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百五十一段*<マーラーとバーンスタイン>2010.11.7

 1971年の録画のマーラーの交響曲第9番の演奏を聴くことができた。指揮がレナード・バーンスタイン、オケはウィーンフィル、これには、バーンスタインの曲の分析とリハーサルの状況の映像もついていた。
 指揮者によってリハーサルのやり方が違う。これは当然だ。曲全体を通しながら自分の意図をオケに浸透させるタイプとか、細かに分析して、短い間隔で演奏を止め指示をする人、演奏練習よりも曲の解説が多いような指揮者・・・と大体三つのタイプに分類できる。

 バーンスタインは最初のタイプだ。アバードも同様だと思う。本番で霊が降りたのではないかと思わせるような入魂の指揮をする。オーケストラのトレーナーとしてはどうなのかとも思うが、しかし、本番の演奏が表現のすべてだと考えれば、細かい指示をなるべく少なくし、楽団員も曲に飽きることなく、集中力をフルに発揮して練習以上の演奏を披露してくれる方が聴く方にとっては有難い。トレーナーの役割は、副指揮者がいれば済むことだ。(今では、経済的にできないのか、副指揮者という名称を聴くことが少なくなった。)

 マーラーの白鳥の歌ともいえる交響曲第9番、バーンスタインはマーラーが乗り移ったかのような、正に入魂の指揮をしていた。マーラーの音楽は、常に西洋的な面と東洋的な面との両面を感じさせる。そして、表現の指示は極端だ。強弱にしても、テンポの指示にしても、楽器の構え方まで・・・。音楽の根源をなすのが生と死だ。9番の交響曲の最終楽章の命の砂が指の間から滑り落ち、瞬く間に無くなり、最後の一粒が消えるのを連想させる最後の部分が心に迫る。

 おそらく、多くの人が最後まで答えを見つけようともがくのが、生きることと死ぬことではないか。マーラーは自身の次女を幼くして亡くした悲しい体験も合わせ、「死」の意味を生涯問い続け、それを音楽にあらわした。その作品のほとんどは歌の曲であり交響曲だ。

 作風の全く違うブルックナーの講義を受け、親交を深めたことは意外だった。二人のシンフォニーは全く性格が違うから。作品は二人とも交響曲で圧倒的な支持を受けている。

 マーラーは、ニューヨークフィルの指揮やメトロポリタン歌劇場の指揮者をしながら、ヨーロッパとアメリカを頻繁に行き来していたこと、作曲家でもあり指揮者でもあること(ともに一流だ)を両立させた稀有の存在でもある。そういえば、バーンスタインも作曲家と指揮者の二足のわらじをはいていた。ウエストサイドストーリーやキャンディードは、今でもファンが多いだろう。オーストリア生まれのマーラー、アメリカ生まれのバーンスタインだが、ともにユダヤ人の血が流れていることを考えれば、深奥に迫るレナード・バーンスタインの指揮の姿にも合点がゆく。

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