指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百六十四段*<音楽の力>2011.4.5

 4月5日火曜日、東北関東大震災から3週間がたった。被災状況は最悪だ。死者、行方不明者は3万人を数えそうだ。何とも表現の仕様がない。ひたすら、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された方々への思いを忘れないようにしなければならない。

 東電の配電範囲の地域では、夜は暗い。計画停電の中だ。当然とも思えるし、今までの夜空の煌々とした灯りは何だったのかと、ふと感じたりもする。どれが、あるべき社会の姿なのか・・・わからなくなる。

 なすべき術もすぐにはできない、我々人間の力の小ささを改めて知らしめてくれたのか、とさえ思える3月11日の出来事だ。運よくか、辛うじてか、命を得ている私がすべきことは何なのか。ただただ、ひれ伏しているだけか、あるいは亡くなられた方を偲んで、悲しみに暮れることなのか、心情と論理的な行動との乖離が大きい。

 日本国に限って言えば、多くの人びとが生活をしているこの社会が無くなっていいはずはない。哀しみながらも未来に向かって立ち上がる心の奮起が必要だと思う。日本中の人々が、あるいは世界中の人々が「仲間」だと言いきる自信は、正直言って私にはない。そんなに人道的な人間の集まりがこの地球なら、戦争をして、殺し合うなどという選択を今までしてこなかったはずではないか。

 音楽は心を癒してくれ、勇気をもわかせてくれる。魔法の芸術だ。その魔法に関わる人は、それを最大限に発揮すべきだと私は思う。個人には、個人の能力ゆえ、あるいは属した組織の中での果たすべき役割があるのだ。社会や組織の力は個の集約の結果だ。

 音楽関係の行事・・・コンクールや音楽祭等は、苦しい状況でも開催するべきだと思う。人間の心を音に託した「音楽」という、この偉大な存在をどうして生かさないのだろう。テレビは、同じ広告を際限なく感ずるくらいに流すのではなく、保存してあるクラシック音楽の映像と音を流す方が、どれだけ心を癒やしてくれるだろうに、と感じた。これは、長大で難解な曲を流せばいいといっているのではない。心が安らぐ名曲がクラシック音楽(この言い方を支持するものではないが、一般に音楽のジャンル分けとして使われている)には、数多くあるではないか。

 モーツァルト「トルコ行進曲」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ヴィヴァルディの「四季」、ベートーヴェン「エリーゼのために」「月光の曲」・・・これらは誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。テレビでは最近ほとんど放送されないクラシック音楽だ。こんな時だからこそ、その価値が認識されるべきだ。

 クラシック音楽=難解・・・こんなイメージを誰が植え付けたのだろうか。明治以降のわれわれのご先祖様か。小さな力ではあるが、音楽をこよなく愛するものとして、音楽の魔法の力をできるだけ多くの人に味わって欲しい。表現者はその役割を、創造者は創る役割を果たそうではないか。

 公の職務として、被災者の救援や、行方不明者の捜索に当たる献身的な公務員の方々に対しては、頭を垂れるのみだ。(役所の勤務者、自衛隊、消防関係者、警察関係者、海上保安庁、・・・言い切れない。)最前線では常に命がけの業務に当たるものがいて、どこかでは、それを指示する者や組織がある。そうならば、其の「司」には、それにふさわしい人が当たらなければ、犠牲者、救助に当たる人々が不幸だ。

 地震と津波で無くなってしまった命や、家や、町・・・これを、どのようにこれからの糧としてエネルギーに変えるのか。少しでもよりよい社会を作るにはどうすればいいのか。これは、尊い「御霊」が今を生きている人間に問いかけている、そのものではないのだろうか。

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