徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*四十七段*<想い出の断層−22−>2008.2.8

 一月があっという間に過ぎた。もう二月も一週間が経とうとしている。暮れから正月は何をしていたのかと思いだせないほど何もしてなかった。通常の行事はこなしたが年末の大きな行事もなくあまりいつもと変わらなかった。

 やはり、胸を躍らせて迎えた子供のころのお正月がなつかしい。我が家は年末には餅つきが恒例の行事だった。父親がどこかから臼と杵を借りてきて家族総出で餅つきだ。子供心に家族総出というのが何ともいえず幸せだった。四人の兄弟姉妹の私は三男だった。兄二人の母親は早くに亡くなり、私の母になる人に育てられた。その兄たちは、私や妹に優しかった。もしかしたら無意識の遠慮があったのかもしれない。わたしは弟なのに大きな態度をしていたのだろう。

 そんな弟にも親切にしてくれ一緒に遊んでくれた。遊びは当然昔の遊びだ。ただ、そんなに裕福ではなかった我が家は小遣いはもらえなかった。紙芝居は後ろのほうでただ見をした。駄菓子屋でも買い物ができなかった。お正月はお年玉が貰えるので駄菓子屋にも行けた。そんなことが原因なのか子供のころを思い出すと妙に物悲しくなる。父親ひとりの給料で四人の子供を育てるのは大変だったのだろう。カレーライスには肉は入ってなかった。すき焼きも牛肉は高いので豚肉だ。たまにしか食べられない豚肉のすき焼きや豚肉の生姜焼きが最高のごちそうだった。

 テレビは我が家にはなく、裕福な家に見せてもらいに行った。そんな少しの哀れさがつきまとう子ども時代だったが、父と母には感謝をしている。高校、大学と進学をさせてくれたのだ。そして基本的に子供に優しかった。

 家の電球が白熱灯から蛍光灯になった。耀かった。テレビがようやく買えた。土曜日になると夜10時から11時までのローハイドという西部劇が放映されていた。子供もそれだけは夜11時までの見ることを許された。父親、母親、兄弟もみんなでみた。この、みんなで見るということがこの上ない嬉しいことだった。

 子供の部屋もそれぞれにあるわけもなく、兄たち二人は早くから独立をして生活を始めた。父は愚痴を言わない人だった。だが、私と妹が生まれ、結果息子二人には十分なことをしてはやれなかったのだと思うのだが、そのようことはなにひとつ口には出さなかった。

 なんだか、ほろ苦い「断層」になってしまった。


 

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