指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百七十四段*<アバド&ベルリンフィル>2011.7.15

 ブラームスの交響曲第2番、アバド指揮、ベルリンの二種類の演奏を聴く。1992年と1994年の演奏だ。画像も録画されているので、演奏(指揮)の違いがはっきり分かる。
 全体の印象は92年の伸びやかさと、94年のより確信を増した迫真の演奏ということになる。

第1楽章の指揮が全く違った。アレグロの3拍子、あまり速すぎない3拍子は、指揮者には厄介な代物だ。アバドは92年の時はほとんど一つに振っていた。ところが、94年では三つに振る部分が格段に増えていた。逆のパターンならわかりやすい。つまり、細かく振っていたものを大きく振るということのほうが、スケール感が増すのであり得ることだから。

 棒の振り方は細かくなっているのに、出てくる音楽はスケールの大きさではるかに説得力が増していた。これだから、指揮者とオーケストラで表現される管弦楽曲は奥が深い。音を出さない存在の指揮者が、演奏者と同じステージに立って棒か腕を振っていて、表現のまとめ役(いや、表現の根幹にかかわっている、こともある)を果たしている。時々、演奏者が勝手に(自由に)演奏しているかのような場面に出くわすこともある。
 指揮者の無能さを感じる演奏のときは、お金と時間を返してくれと思うことも結構あるし、たまに、感服して心が満たされ、幸福な思いで帰途に就くこともある。

 アバド&ベルリンの演奏は、ほとんどが外れない。入魂の演奏が多い。棒の動きが分かりにくいという面さえも、プラスにしているかのようだ。ウィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮もそうだった。微妙なズレさえも魅力に聞こえる。

 アバドが去った後のベルリンの演奏は今一つ冴えない。それでも、日本では絶大な人気だ。定期的に日本に来てくれる。そのお返しか、日本の指揮者を招いてくれるのは。宣伝を大々的にして商業ベースに乗ればすべてよし!といえるかも。それにしても、最近のショスタコの5番はいただけなかった。

 日本の指揮者で、ベルリンとの相性が抜群なのは小澤征爾だけかもしれない。カラヤンの没後を記念しての「悲愴」はすごかった。テレビ放送されたはずなので、録画した人は人生の糧になるはずだ。
 私の中でのベルリンフィルと指揮者のコンビでは、アバドの指揮がベストだ。イタリア人のアバドとドイツのベルリンフィル・・・偏見ではなく、国を超えた名コンビだと思えば、興味が尽きない。

 いくつかしか持っていない録画したメディアは貴重な宝物だ。

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