指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百八十三段*<作曲家像>2011.10.29

 スコアを見る。いろいろなことが見えてくる。作曲家の顔、思い、風景、言葉・・・ありとあらゆることが目の前に浮かぶ。
 不思議なことに、どの曲も、ではない。あまり浮かんでこない曲や作曲家もいる。駄作か、自分の(私の)力足らずか、相性か、断言は難しい。

 スコアと書いた。日本語だと総譜という。総譜とはよくつけた名称だ。一つのパートではなくすべてが書かれている楽譜だから、まさしく総譜がいい得て妙だ。
 12段くらいが1ページに書かれてある総譜を読めるのかと、思う人がいるようだが、これが読めるのだ。
 指揮者のやるべきことは、一見指揮台で棒を(腕を)振っているだけのように見えるのだが、これは大きな誤解だ。その前に、楽譜の分析(だけに留まっていては、研究者になってしまう)から、推理小説のようにいろいろと思いめぐらせる。これが、指揮者の醍醐味であり、一番大切なやるべきことだ。

 曲を深く読み取れたら、しめたものだ。あとは、練習でその結果をいかに演奏者に伝えるか、これは、コミュニケーション能力であり、指揮の技術の裏付けも必要になる。
 この過程を経ての本番の姿だ。もちろん本番は本番でなければ成しえない表現がある。即興性や精神性など、今一つ、言葉で表すのに向いていない分野のように思う。カリスマ性とか、音楽性とか、芸術性とか、曖昧模糊としたものになってしまう。

 ソリストは、つくづく偉大だと思う。指揮者は、自分の解釈したものをほかの人に演奏してもらうのだが、独奏者(独唱者)は一人でそれを表現してしまうのだから。(全部のソリストがそうしているかは、疑問符が付く)

 楽譜から、作曲家像が浮かんでくる作曲家、それはベートーヴェンに尽きる。像と書いたが、精神の「像」だ。先輩作曲家、モーツァルト、ハイドンは「顔」が浮かぶ。
 聴力を失い、女性をも得ることができず、自殺まで図ったベートーヴェンなのに、伝わるメッセージは「不屈」の意思力だ。

 自分の直接かかわれるベートーヴェンは管弦楽曲だ。合唱幻想曲、戦争交響曲ともいわれる「ウエリントンの勝利」、いくつかの序曲など、首をかしげる作品があったとしても、九つの交響曲の存在は、圧倒的で、人類にとって、これからも得ることのできない作品だろう。

 映画「アマデウス」での作曲家、サリエリ(実在の作曲家)は、モーツァルトに神と悪魔を見たのだが、もしベートーヴェンと接していたら、何を見たのだろうか。

 作曲された作品は、一人で歩きだす。作曲家(だれでも)は、いなくなっても、作品は残る。表現のスタイルは時代とともに変化する。だから、作品は永遠に残る可能性がある。
 作曲家が、どんなに細かく楽譜に指示を書き入れても、あくまでも、言葉での伝達でしかない。現代の作曲家には、事細かに指示を書き込む人が多い。表現者の自分としては、そこはほどほどに、と思う。特に自作自演がかなわない演奏形態の時は、表現者に任せるしかない。

 この観点からみても、協奏曲のカデンツァを演奏者に任せないで、自ら作曲した(それは、そうだろう)ベートーヴェンではあるが、譜面への指示の分量は、行き過ぎず、不足しすぎず、演奏者にやりがいを与えることに成功している。
 人間を超え、しかし、神でもないなら、武骨な「魔術師」か。(私の中では、神になっている)

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