指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百八十八段*<指揮者によるプログラムノート>2012.3.30

●愛と正義の序曲・・・歌劇「フィデリオ」序曲

 ベートーヴェンは唯一のオペラ「フィデリオ」のために、四つの序曲を書いた。レオノーレとその夫フロレスタンとのゆるぎない夫婦愛をテーマに、常に求めていた正義、勇気、愛、意志の気高さを描いたこの作品をベートーヴェン自身たいそう気に入っていた。「フィデリオは愛する作品の一つだ。生みの苦しみが大きいほど、その子はかわいいものだから・・・」と後の病床で語ったといわれる。作品番号の72は田園交響曲の68に近いころの作品になる。難産の末の2時間10分に及ぶオペラの題名は「フィデリオ」、この名は政治犯として投獄されたフロレスタンを救うために男に変装したレオノーレが名乗ったものだ。

 レオノーレ第一番、第二番、第三番と呼ばれる序曲は、時間が長く、充実しすぎているがゆえに、序曲としてはほとんど用いられない。その中で簡潔明瞭なこの「フィデリオ」序曲がオペラの序曲として多く用いられるようになった。急、緩、急、緩、急のわかりやすい構成のこの曲を、協奏曲、交響曲への導入として、お聴きくだされば幸いだ。


●北欧の「田園」協奏曲・・・グリーグ「ピアノ協奏曲」イ短調

 ノルウェーの作曲家、グリーグのピアノ協奏曲イ短調op16は現在ではロマン派の作品を代表する協奏曲として多くに人々に愛されている。ドイツで初めて紹介されたときの「シューマンとショパンを足して2で割り・・・」「ボロ切れの継ぎはぎだらけ・・・」と酷評されたことが嘘のようだ。(これらの評価が、的外れともいえない面もある曲だ。それでも、その印象を超える魅力があるからこその圧倒的な支持だろう。)
わずか1小節の最初のティンパニのクレッシェンドから意表を突き、呼応するピアノソロで心をワシ掴みにする。ピアノ協奏曲ではチャイコフスキーの第1番も突然のホルンの咆哮から始まるし、ベートーヴェンの「皇帝」もオーケストラのテュッテイから始まる。

 シューマンやショパンの2曲のコンチェルトも最初の部分が印象深い。ハイドン、モーツァルトに代表される古典派の作曲家には見られなかった特徴だ。

 古典派とロマン派音楽の橋渡しのような役割を果たしたベートーヴェンが作曲した(1808年)交響曲第6番「田園」からちょうど60年後(1868年)に完成したグリーグのピアノ協奏曲は作曲者の感情表現が明確で直接的だ。25歳の作曲家グリーグがノルウェーの風景やそれを感受した作曲家の心の揺れを余すことなくこの曲に込めたと思えば、この協奏曲は北欧の作曲家、エドヴァルト・グリーグの「田園」協奏曲だといえよう。フランツ・リストはこの曲を初見で演奏したというエピソードがあり、その時に「これこそ、北欧だ」と絶賛したといわれる。


●自然への感謝と祈り・・・パストラルシンフォニー

 彫刻家ロダンは若い芸術家へ宛てて次のような手紙を書いている。「自然への愛と誠実さこそ、実に天才たちの持っている二つの強烈な情緒である。あらゆる天才は自然を熱愛した・・・」その言葉と同様に、作曲家ベートーヴェンは誰よりも自然を愛した。

 聴覚を失い、気難しさを増し、人間を避けるようになったベートーヴェンが自らの心を解き放つ唯一の友が自然だったと語っているのは恋人のテレーゼ・フォン・ブルンスウィックだ。

 1808年の夏、ウィーンの郊外ハイリゲンシュタットにおいて38歳のベートーヴェンは第六交響曲「田園」を作曲した。

 自らそれに「パストラル(田園)」と名付け、五つの楽章のそれぞれに標題まで書いた。

 第1楽章「田園に着いたときの晴れ晴れとした気持ちの目覚め」
 第2楽章「小川のほとりの情景」
 第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」
 第4楽章「雷雨・嵐」
 第5楽章「羊飼いの歌・嵐の去った後の喜ばしい感謝に満ちた気持ち」

 いずれも光景の描写だけではないベートーヴェン自身の心の動きを表している。ハイリゲンシュタットの森を歩くベートーヴェンの姿と心の深奥が目に浮かぶだろう。

 まったく同時期にハ短調の第五シンフォニー、通称「運命」を作曲しており、この森では遺書まで書いている。有名なハイリゲンシュタットの遺書だ。自殺は思いとどまるのだが不屈の意志力と自然への憧れと感謝の心・・・この二つの一見相反する精神こそがベートーヴェンにとって生きるためになくてはならなかったものに違いない。

 牧歌的な平和なイメージが強い「田園」という名称、しかしそこに秘められた人間ベートーヴェンの苦悩と意志を表現しなければ、この曲の真価には迫れない。

 自らつけた各楽章の表題、5楽章の形式、それに、管楽器の使い方が特徴的だ。第3楽章から登場するトランペット、第4楽章のみに使われるピッコロとティンパニ、第4楽章と第5楽章で使われるトロンボーンがそうだ。

 5部の弦楽器のすべてが、その時に応じ主旋律を奏で、木管楽器のすべてに重要な旋律を委ね、心情の表現のために用いられる金管楽器・・・演奏と表現が容易くはいかない交響曲だ。有名な曲だが、演奏される回数が少ないことでもそれがわかる。

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