指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百九十段*<春の一日…つれづれなるままに>2012.5.9

 今日は雨が降り、気温も低かった。昨日は外に出た時の樹木の匂いを感じたことを書いた。今日は、昨日ほどには匂いを感じなかった。
 冬の寒さよりも格段に快適に思える春の一日が味わえる。エアコン、電気ストーブ、温風暖房器のお世話にならなくて済むのがこれほど快適とは、自然の持つ力を思った。

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲の旋律が時々頭に浮かぶ。第一楽章のホルン4本の旋律、第2楽章のメランコリックな旋律、第3楽章の舞曲のような旋律、あまり好きではなかった曲なのだが自分が指揮をすることになると好きになることがある。この曲は、その一曲になりそうな予感がする。

 うつ病の中で、現代の鬱病が多くなっているとのTV番組を見た。原因の一つに学校教育での評価の観点があげられていた。意欲、関心、態度が評価の前面に出てきたことが、他人と比べることでしか自己肯定ができない人間を育ててきたのかもしれない。
 戦前でも戦後でも(この表現は死語か)教育の大方針は国が決めるという事実は変わらないのだろう。教育は案外脆いもので、外からいじられやすい行政の分野だ。社会が穏やかな時と、険しい時に教育に目を向ける力が働くように思う。

 いろんな事件があると、「専門家」といわれる人が頻繁に登場する。専門家という語句でほとんどみんなが信じてしまう現象、これが最近特に嫌な雰囲気だと私には思える。「家」という一文字は危険な文字ではないか。「者」を使わずに「家」だ。音楽家、芸術家、陶芸家、評論家、政治家・・・「家」をつければ権威がありそうに思えるところが怪しい。音楽者、評論者ではいけないのか・・・「者」と「士」「家」の違いは広辞苑的にはあるのだろう。「学者」という表現もあるのだから、難しい。
 言葉には使いたい人が言葉を選ぶという、意識的な使い方がされることがある。無意識の洗脳には要注意だ。

 「若者たち」という歌と同名の映画があったことを思い出した。「君の行く道は 果てしなく遠い だのになぜ 歯を食いしばり 君はゆくのか そんなにしてまで・・・」現在の若者もそうなのだろうと思った。

 ドラマで終戦後の状況を時代背景として取り上げるものが増えてきた、と思うのは思い過ごしか。懐かしく感じることもあり、それでも、視聴率が上がりそうだからと言って、表面的に戦後の復興の姿を描けば、視聴者の共感を得られると思えるような番組もあり・・・で第四権力とも称されるテレビの安直な姿勢を腹立たしく思う最近だ。(というような番組だけではないのだろうが)

 四百八十九段へ   四百九十一段へ