指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百九十二段*<時間>2012.6.25

 イングランドとイタリアのサッカーの試合を何気なく見始めたら、目が奪われた。とにかく速い。速さは喜びのようにさえ思えた。ボールも速い、選手も速い。

 ユーロの選手権、準々決勝か。Jリーグの速さと全然違う。それと選手のモチベーションも。こんな試合は時間が経つのが早く感じる。数日まえの女子の試合とは印象が違う。良し悪しの問題ではなく、持ち味に属することだから、だから、女子がだめだという意味ではない。

 オリンピックや世界選手権の試合を見ていて思うことがある。体格というか体型というべきか、足の長さが少々足りない日本人が、欧米人と競うのは無理なのではないかと。
 競技の向き不向きを考えて、選手の強化をした方がよいのではないか。

 体力や、脚力というよりも脚の長さでハンデを背負う競技に「勝ち」を期待するのは無理があるだろう。それでも、競うことに意味があるのだと言われれば、その通りだと思う。
 負けるのがわかっていても勝負する、ということもあって当然だ。勝者というのは敗者がいてこその勝者なのだから。

 一流を見ることや感じることは生きる喜びだ。一流には持って生まれた才能と努力の結実がある。自分にはない突出した人を見ることで、自分の立ち位置と成すべきことがわかる。

 6月15日に演奏会の指揮をしたが、聴いてくれた人から、演奏時間が短く感じたという感想をもらった。これは、何よりの私にとっての賞賛だ。長く感じる演奏会、長く感じる講演会など、こんなものに巡り合ったらまさしく人生の時間の浪費だ。
 人を集めて何かをする時、その人たちが貴重な人生の時間を割いてくださることに、表現者としてはそれ相応の担保をしなければならないだろうと常々思っている。それを、時間が短く感じてくれた人がいたのだから、指揮をした甲斐があったというものだ。

 次回は、八月の演奏会、どう感じてもらえるか。楽しみも増え、プレッシャーでもある。

 以前の職場で同僚だった人が亡くなった。同じ歳だ。生きることと死ぬことは、紙一重で常に隣りあわせだとつくづく思った。また、生きていることを感じながら、それよりも生かされていると感じ、生きねばならないと思った。

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