指揮者 Conductor
高橋 利幸 Takahashi Toshiyuki


徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 



*四百九十七段*<習志野公演プログラムノート>2012.8.25

 ちば室によるブラームスの交響曲シリーズは、習志野文化ホールを会場に第4番から始まった。
 ブラームスのシンフォニーシリーズとべートーヴェンのシンフォニーシリーズは、千葉と東京とで開催し、習志野文化ホールと紀尾井ホールを会場としている。ルーテル市ヶ谷ホールでのニューアーティストコンチェルトシリーズとともに、ちば室の柱になっている。

 オーケストラの公演では、シリーズという形より、アトランダムなプログラミングが多く取り入れられており、プロオケでは馴染みの少ない現代曲を紹介や啓蒙の意味を含めての選曲もされている。
 ちば室のように、一人の作曲家の交響曲を連続して取り上げることで、その作曲家の魅力に迫りたいと願い、また、形式として(構成として)確立された交響曲に一貫して取り組むことで、聴衆の方々にもその姿勢を評価していただきたいと願いながらの演奏は、緊張とともに充実感もひとしおのものになる。

 オープニングの曲は、モーツァルト作曲クラリネット協奏曲の第1楽章を取り上げる。団友・海老原 修の退官を記念してのステージだ。ちば室には若いクラリネット奏者が3人おり、今では安定したパートに成長したが、一時は欠員もあった。その時に助っ人として一緒に演奏してくれたのが、海老原修さんだった。公立学校の教頭先生を勤め上げられ、無事定年退職をされた先生への餞の心を込めたちば室からのプレゼントでもある。

 第2ステージのチャイコフスキー作曲ピアノ協奏曲第1番は、冒頭のホルンのテュッテイがあまりにも有名だ。チャイコフスキーは3つのピアノ協奏曲を書いたが、この1番以外に演奏されることはほとんどない。モスクワ音楽院初代院長のニコライ・ルビンシュタインが「無価値で他の作曲家からの盗用もある」と酷評をしたが、曲を献呈された指揮者でピアニストのハンス・フォン・ビューローがボストンで初演をし、大好評を博したエピソードは広く伝えられている。その後、ニコライは評価を改め、好んでこの曲を演奏するようになったといわれる。
 曲の特徴として、第1楽章が20分にもおよび、第2楽章、第3楽章のそれぞれが7分という時間を考えると、構成のバランスにやや欠けており、第1楽章の展開に苦慮した作曲家の様子がうかがえる。(協奏曲では、概して第1楽章を長く作曲するようだ。)
 ピアノ曲を多くは残していないチャイコフスキーの曲だからだろうか、独奏ピアニストには高い演奏技術とタフな体力と、鬼神のような精神力を要求している(と、思える)。独奏が「独走」になっているソロ、楽譜に書かれている音符をひたすらなぞるだけの演奏があれば、わざとらしい無意味なエスプレッシーヴォ、指が回るのを誇るだけの意味のないサーカスのような演奏、それにピアノを打楽器のように演奏するピアニストの多さ(「打鍵」という言い方は、まさしくピアノにはふさわしくない表現だ)と、この曲の魅力を削いでいるのでは、と思わせる演奏が跳梁跋扈している。
 それでもチャイコフスキーらしい、哀愁と躍動感にあふれたこの曲は魅力的である。若いピアニストが、この曲に挑戦するのも楽しみだ。

 第3ステージの、ブラームスの交響曲第1番をもってこのシリーズは終わりを迎える。今日の公演のメインプロだ。ベートーヴェンを敬愛してやまなかったブラームスが第1交響曲を完成させたのが実に43歳の時、調性はハ短調、曲想は「苦悩を突き抜けて歓喜へ至る」という雰囲気があり、ベートーヴェンの第九に続く第十交響曲と呼んだ人がいた話もうなずける。

 第1楽章は、作曲者の確固たる人生の歩みを想像させる。あまりにも美しい第2楽章への序章だと思えば、さらにこの楽章の意味が増すだろう。そして、第2楽章終わりのホルンソロとヴァイオリン独奏の掛け合いは、まるで恋人同士の愛のささやきのようだ。第3、第4交響曲のような悲しみは表に出さず、ひたすら美しい。
 第3楽章は、クラリネットの独壇場だ。幸福感は否応にも増す。この3つの楽章を経て最後に展開されるのは、第4楽章の、信仰や祈りを思わせ、生きることの喜びを感じさせるフィナーレだ。重厚でありながら輝きを感じさせる楽章だ。満を持してトロンボーンがコラールを奏でる。

 有限の時間を使って表現する「音楽」には、人間や人生をありのままに表す部分が多い。また、そうでなければ芸術の価値は無いとさえ思える。

 技術の壁を乗り越え、曲の持つ心と精神にできるだけ深く迫りたい。また、会場の皆さんと一期一会の時を持てるのが何よりの励みだ。

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