徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*五十四段*<ロ短調ミサ曲>2008.2.22

 パリサイ人(びと)的に楽譜を考えない。私が指揮をする時に念頭に置いている言葉だ。これは、故・斎藤秀雄先生の言葉でもある。聖書に書いてあることは全部守って自分は神様に一番近い人間だと思っているのがパリサイ人(びと)。そこへキリストが出てきてこう言った。「そればっかり守ることが神様に近寄ることではなくて、その真髄をつかむことだ」と。


 音楽は一部愛好家のものではなく、民衆のものだ。こんな思いは持ち続けていたい。「バッハがスラーを書いたからこれは絶対スラー」そうではなく、もっと人間の心の触れ合う音楽を表現すべきだというのが斎藤秀雄氏の主張だ。ベートーヴェンのチェロソナタの三番の出だしを例に出してこう言った。ベートーヴェンがやむにやまれぬ思いをもって、ロマン的なメロディーを書いたならやはりロマン的に弾くのがいい、と。

 骨董品を見て楽しむ人は博物館に行け、とも言っている。いま生きている私たちは、音楽の歴史で言うと、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派と大雑把に書いただけでもこれだけの時代を経てきている。これを無視することはできない。いまに生きる私たちが演奏するバッハだ。面白いのはロマン派がバッハを発掘したともいえることだ。「マタイ受難曲」を発掘したのはメンデルスゾーンだった。反面、新即物主義という主張も出てくる。これはロマン派を完全に否定する主張だ。

 こんなふうに考えを巡らすと果てしなく広がる。間近に迫ったロ短調ミサ曲の本番だ。現代に生きる演奏を目指すことになる。音楽学者はまた違った観点で曲にアプローチするのだろう。私は、表現者としての指揮者として曲を表現する。初めてこの曲を聴いた人が眠くなるような演奏は避けたい。つまりそれは音楽芸術が作曲者と演奏者と聴衆とその三つが存在しなければ成り立たない芸術だと思うからだ。

 250人以上の合唱団員が積み重ねた練習の集大成だ。あだやおろそかには指揮はできない。重ねた時間と重ねた思いに心を寄せたい。かけがえのない時間をこの日のために注いできた人たちの思いをどう表現するのか。私に課せられたうれしくもあり重い課題でもある。


 

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