徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*五十五段*<温もりのある演奏、低温の演奏>2008.2.26

 演奏会に行った時に、こんな感覚を覚えたことはないだろうか。会場の空気の温度が微妙に低く感じる演奏を聴いたことが・・・。私は最近若いころに感じなかった感覚を覚えることが多くなった。

 すこし思い返してみると、意外に技術の高い演奏会と言える時にその思いを多く感じる。これが不思議なことだ。だからと言って音楽表現の技術がなくて感動を受けることはないので、言葉での表現は難しいのだが。

 音楽の表現は、技術だけが優れていればそれで十全かというとそうではないだろう。技術だけを追求すれば、コンピューター処理で技術の破たんのない完璧な音づくりができるだろうということは容易に推測できる。ただし、その音に感動するかはまた別の話だ。プロの技術の完璧な演奏を聴いてもしっくり心に響かないことがある。私は人間の持っている体温を、あるいは体温を上回る精神の熱さを感じたいのだ。生きている証のような経験が演奏会で味わえれば、それこそが醍醐味だ。演奏会までに演奏者は出来るだけの努力を続ける。そしてその成果を全身全霊で表現する。これしか音楽芸術の感動は得られないのではないか。

 アマチュアはプロの意識の高さや技術の高さをめざし、プロはアマチュアの人たちの一途な思いやひたむきさを、その感覚を忘れない。そんな素朴な表現の原点を見つめることが必要だと思う。

 音響に感動するのではなく、音を通して伝わる、作曲者の、演奏者の伝えたい思いを感じた時に心が震えるのだ。

 技術と音楽性は一致しているともいえるし、一致しないともいえる。結論は簡単には言えない。しかし、演奏者の熱い思いが伝わってきたときの演奏を聴いた時のなんとも言えない満足感を思えばそんな演奏を求めたくなるし、逆に自分が演奏をする側に立った時は、聴いてくださる方に気持ちを満足してほしいと願う。そんな演奏を常に目指したい。私の場合はそんな演奏ができる指揮をしたいと言ったほうが正確だ。

 巷に氾濫する数え切れないほどの演奏会、主催者は何とかチケットを多くさばきたい。これも当然だ。情報誌で海外のアーティストの入場料をみると、溜息が出てしまう金額が見られる。もちろん、お金のある人はいるわけだし、行ける人が演奏会に行けばいい、というのも真実なのだろう。そう理解をしてはいても金額があまりにも手が届かなくて、それで人類の生み出した音楽という生きる糧ともいえる音楽を味わえる人が増えないとしたら、それは人間の不幸だともいえるだろう。

 限られた時間と限られた予算の中で、音楽に何を求めるのか、そんなことを考えながら音楽情報誌を見るのも、情報にさらされている私たちの必要な知恵ではないか。



 

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