徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*六十五段*<音楽の温度>2008.3.11

 演奏会に行って客席で演奏を聴いていると、舞台から発せられる温度を感じることが多くなった。若い時にはそれほど感じなかったことだ。その年代の時は自分自身の温度が高かったからかもしれない。

 聴衆として聴いてみると、舞台から伝わる温度が高い時と低い時とがある。自分なりに考えてみた。演奏者がプロの演奏者の場合は基本的に温度が高い。プロとして聴衆に何らかのプレゼンをするとしたら当然かとも思う。アマの演奏者の時も、意外と温度が伝わる時がある。音楽の表現をとおしての温度だから、たとえば、音程があまりにも合わなくて混濁した響きの中で温度が高いと感じることはない。表現として聴衆に心を伝えるとしたらそれなりの技術の習得は必要だ。おそらく、絵画の分野で基本のデッサン力をつける必要があり、どんな大家でもその道を通ってきているのと同様だろう。

 表現活動は基本的にはプロもアマも関係なくいいものはいい、といえるものだ。アマでも表現するに十分な技量をもっていれば感動も受けるし、温度も高い。思うに、微妙なのはその境目の音楽表現だ。たとえば、ある種の専門の音楽を研究している団体の音楽会にその微妙さを覚えることがある。技術的に高いレベルを持ち、その演奏に絶大な自信を持っていそうな団体の演奏会、これに温度の低い時があることに思いを巡らす。

 つまり、私は、生の演奏会を聴きたくて会場に足を運んだ。生の演奏と書いた。CDやレコード、DXDでの演奏再現を求めてきているのではないのだ。その時に、研究の成果の発表のような演奏を聴くとがっかりしてしまう。そんな時は舞台からの温度の高さがほとんど感じられない。音楽を表現する喜びも悲しみも、ベールに隠されたように冷たく沈んでいるイメージだ。音楽を聴くときは、その演奏からいま生きて、ここで音楽を聴いている自分を確認したい。そして自分という存在を自分で認識したい。そのことで心の安定を得たいという潜在した願いがあるのだ。そんな時に温度の低い演奏を聴いてしまうと、なんだか救われない気持ちになる

 プロの演奏にはそれは少ないと書いた。強い思いを持ってプロになったことを思えば当然といえる。そのプロの演奏会でも気の抜けた演奏だなと感じる時もある。演奏になれてしまった結果ともいえる。これは期待しているものが大きい分だけ失望感も大きい。演奏しているのは生身の人間だ。人間という意味では自分と変わらない。職業の役割として考えれば、それぞれの果たす役割があるはずだ。アマでもプロでも条件さえ同じなら感動の度合いも同じだ。人間の能力の高さや多様性は、芸術の分野にも存在するのだと改めて思う。


 生身の人間が目の前で音をとおして、思いを表現してくれる。それを享受することができる。生きる甲斐の一つともいえる。人間が人間である証しだ。そう思えば、逆に自分が演奏する側に立った時は、聴いてくれる人の心を揺さぶるような熱い演奏をしなければ、と思う気持ちが強くなった。



 

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