徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*七十段*<言葉の難しさ・・・素朴な疑問>2008.3.21

 こうして文章を書いていると、言葉の使い方の難しさを感じる時がある。その言葉が何かの評価として使われるときはなおさらだ。私が「ひどい」という語句を使うとする。誰が見ても「ひどい」と思われる犯罪・・・殺人や強盗は、まさに「ひどい」という言葉がふさわしい。これが人の評価となると難しい。あの人はひどい人だ、と言ったとする。その場合の「ひどい」という意味は、その人にとって「ひどい」に値するから「ひどい」が通用することなのだ。

 他の観点からみると、そんなにひどくはない、ということもあり得るということを肝に銘じながら文にしなければならない。文を書くことが不得意な私としては、せめて書く時には、己の目で見たこと、己の耳で聞いたことだけを書くことを常に念頭に置いて文章にしているつもりだ。

 人の能力にそんなに大きな違いはないと思わないだろうか。たとえば、日本銀行の総裁の席が埋まらなかったとして、しかし、その穴を埋める人材は必ずいるということだ。人間の歴史はそうやって維持されてきたはずなのだ。ひとりの存在は、ほとんどだれもが同じだといってもいいのだ。時に、その人でなければ務まらないといったような表現を目にすることがある。本当にそう思っているのかと疑う。そんなにひとりの力が大きいのなら、その人がいなくなったら全部だめになるのだろう。

 そんなことではないと分かっていながら、そのような論法を使い、また、それに賛同する人も多いことを考えると、そうでありたいという願いがそうさせているのかな、とも思う。自分がいなくても組織は維持され、変わることのない毎日が続くのだと思うこと自体が、できればそう思いたくないと願う、人間の素朴な欲求なのかもしれない。

 誰もが己の存在を他の人に認めてもらいたいし、自分の必要性を自分でも認めたいのだ。自己肯定がなくて、生きていくのは苦しいことだ。自己の存在を確認するために、他人を犠牲にすることがままある。犠牲という言葉が大げさなら、他の存在を攻撃することといってもいいだろう。

 攻撃の対象として、まとになりやすいのが、学校、教職員かもしれない。学校や教育は、そもそも性善説で成り立っているようなものだ。攻撃には概して弱い。反撃も不得手だ。もし保護者がそれを承知で攻撃してくるとしたら、情けなくもおぞましい。自分自身が教育の現場を離れたからこそ痛感する。教師に自信を持たせろ、と。学校に理解を示せと・・・。

 周囲とうまくやること、なるべく批判や避難を受けないようにといつも思いながら、学校運営をすることで次代を担う子どもの教育が本当にできるのか。疑問が渦を巻く。



 

 六十九段へ   七十一段へ