徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*八十四段*<新年度に思うこと>2008.4.7

 今日は午後から雨になった。やはりというか予想通りというか、桜が散り始めた。満開から散り始めがあっという間だ。そう意識しながら桜を見ていると、このスピードは何なのだ?という思いがしてくる。

 桜は「散る」という言葉がぴったりだ。ほかの花だと「枯れる」というのだろうか。花びら自体も小さいし、それもあって「散る」という表現になるのかも知れない。大きな花の、たとえばツバキやバラのように、花が一輪枯れて地面に落ちる、というイメージは桜にはない。潔い花の代表ともいえようか。

 今週から多くの学校が新年度のスタートを切っただろう。始業式、入学式と出会いと喜びの春の訪れだ。私が子供の時も四月、桜、始業式、入学式がひとつの流れとして記憶に残っている。


 夏の訪れは、一学期の終業式と通知表、そして夏休みからやってくる。冬休みとお正月、お年玉、春休みは卒業や進学、先生方の離任とセットだ。

 日本は面積が小さいこともあり、東西南北にうまく位置していることもあり、全国どこでも四季がある。時間のずれが少しはあっても、ほぼ同じ時期に同じような自然の変化を感じ取ることができる。

 自然の変化を感じ取れるように、いつのまにか一年を三つにわけて、間に休みを挟む、この三学期制度は先人の知恵と経験が生み出し、定着していったものだと信じている。何年か前から、二学期制という言葉が聞かれるようになり、いくつかの学校や自治体単位で二学期制を取り入れている。始業式や終業式、期末の成績処理やテストの回数減などによって一年間におそらく24から30時間程度を授業時間に使えるのだと思う。

 しかし、例えば、学力をせまい意味に解釈して、主要五教科といわれる教科のテストの点数だけを考えても、二学期制にしたからと言って単純に授業時間が増えただけで点数アップが図れるとは思えないのだ。つまり、子どもとは言っても、意欲ややる気集中力といったものと連動しないと、単純な学力でさえもそう簡単には身にはつかないということだ。それが人間である証しでもあろう。

 考えようによっては教育関係者には、驕りがあるかもしれない。自然の移ろいにあった形の三学期制だと考えれば、大げさな表現をすれば、授業時間の確保のために自然に逆らう、という見方もできる。そう思えば傲慢な発想だとはいえないだろうか。狭いとはいってももちろん雪の降る地方と南国とでは気温も違うだろうし、まさに自然環境がちがう。その部分ではすでに各地方で工夫をした教育課程を組んでいる。そんな中でもなおかつ二学期制を実施するメリットをいまだに感じることができない。

 教育を一言で語ることはできないのは十分わかっている。人間を教育するという複雑なことをしているのが学校という教育機関だ。学力がつけば・・・、高等教育と呼ばれる高校や大学の進学率が上がればすぐれた人間を育てられるのか、そうではないだろう。私の高校時代の大学進学率は25パーセントだ。いまは、その三倍くらいにはなっているだろう。その成果でいまの社会が住みやすい、思いやりのある社会になっているのか?甚だ疑問ではないか。

 自然から学ぶもの、人から学ぶもの、知識として学ぶもの、そのようないろいろな力を付けさせる教育活動をいまの学校は目指しているのか。次代を担う子供たちに、どんな力を持ってほしいのか、もし学力偏重や大人になってからの拝金主義者や人を攻撃することを平気でする人間を育てたくないのなら、日本人の一人として考えさせられることが多いだろうし、真剣に見つめなければならない問題だ。



 

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