徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*八十六段*<楽聖>2008.4.9

 ある演奏会で「皇帝」をきいた。「皇帝」とはベートーヴェンのピアノ協奏曲だ。ただ、ひたすらに勢いだけを感じさせる演奏に首をかしげた。楽器の演奏技術はスポーツの記録更新に似たところがあり、技術の精度はどんどん上がる。技術が高くなるのは望ましいことだ。「音」を通しての表現芸術の音楽だと思えば当然のことだ。

 困るのは、技術が先に立つことだ。はじめに音楽あり、が、はじめに技術あり、に陥ってしまうかも知れない。人間は自分より優れた技術をもつものにあこがれるし、感心もする。私もそうだ。

 そこで、振り返ってみる。いまの「感心」「感動」はどこから来ているのかと・・・。

 ところで、ベートーヴェンの「皇帝」のことを書いた。実は、私は首を傾げる演奏なのだったのだが、ベートーヴェンはどんな演奏でもベートーヴェンらしく聴こえるのだ。それは、今までにも経験したことだが、最近、確信を持って言えるようになってきた。

 シンフォニーでもコンチェルトでも同じように思う。たとえば、指揮者がどんなに力もうとも、逆に冷静すぎていたとしても、あるいは、演奏がルーティーンであったとしても、聴いていくうちに、やはりベートーヴェンだと納得できてしまうのがベートーヴェンの凄さだと思う。これが他の作曲家とちがうことだといえる。

 ベートーヴェンの演奏に関してだけは、プロもアマもなく、平等にというか表現に左右されることなく、聴く者に音楽がしっかりとプレゼンをしてくれる。

 ベートーヴェンのことを「楽聖」と書いてあるものを読んだ時は、「楽聖」?なんだ、この大げさな書き方は・・・と感じたときも正直あった。バッハを「音楽の父」といい、ヘンデルを「音楽の母」と称してきた頃の話だ。ところが今になって思い直すと、それらの表現が、あながち間違いではないと思えるようになってきた。

 さすがに、先人は「偉い!」と言わざるを得ない最近の私だ。先人に学ばなければ・・・と強く思うようになった最近の自分が成長したのか?老化したのか?

 答えはもう少し先のような気がする。




 

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