徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*九十四段*<想い出の断層−37−>2008.4.21

 ある合唱関係の機関誌を読んでいて、作曲家の福島雄次郎先生がご逝去されていたことがわかった。亡くなられてから3年になる。初めて尚美学院の門をたたき、初めて音楽を専門的に学びだしたのが基本科という科で、その時の担任の先生が福島雄次郎先生だった。先生ご自身が、大人になられてから音楽の道に進まれたということもあり、私と同様の、昼間働いて夜学校で学ぶ学生の多いこの基本科二部の学生の面倒を親身になってみてくださった。

 講義も一コマか二コマは担当されていた。日本の音楽史と和声学の基礎の講座だったと思う。苦学生・・・昼間働き、夜学校で勉強する学生を当時はこう言ったような記憶がある。その苦学生の私たちにとって福島先生は何とも親しみやすく、慈愛にあふれ、学生への共感にあふれていた。音楽学校の講師の先生方は、音楽のエリートコースを歩んできている方々が多いのは当然のことで、しかし、その学習環境という点で負い目を感じている「苦学生」にとって、学歴も東洋音楽短期大学卒で、前職はギターを持っての「流し」をしていた福島先生は身近な目標でもあるし、音楽のエリートでなくても音楽はやれると目の前で見せてくれる、まさに生きた見本でもあった。実際にギターを持って、授業の中で流しの曲を弾き歌いしてくれたこともあった。「湯の町エレジー」だ。哀愁を帯びたギターの前奏と先生の声が思い出される。

 学園祭のとき、基本科の学生による合唱の出し物で、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を私が指揮をしたのだが、その演奏を褒めてくださった。それも音楽性を褒めてくださったことが嬉しかった。

 先生は、その後尚美を去り、鹿児島音楽短期大学で教鞭をとられるようになる。卒業してから、尚美時代の友人が結婚式を挙げた時の仲人が福島先生で、久しぶりにお目にかかった。ほかにも、尚美時代の先生方が列席されていた。私が尚美の指揮科の講師になったことを話した。ひとりの先生は、「君にできるのか?」と言われた。福島先生は近くでその話を聞かれていて、「高橋君なら出来るよ。大丈夫だ。」とその先生に言ってくださった。その時の気持ちの動きを今でも思い出す。「できるのか?」と「出来るよ、大丈夫だ」と、この二つの言葉の違いを。短い言葉だが、もしかしたらその言葉は、言葉を発する人の人格といってもいいのかも知れない・・・と。このときの言葉の体験は、私の中で己の発する言葉への戒めとなって今でも残っている。

 福島先生の亡くなられたことを三年も知らなかったことに、現在の自分の状況を如実に示していると改めて気がついた。尚美の卒業後も、学校現場で常に「音楽」を念頭に置き、指揮活動も途切れることなく継続して続けてきた。それは自分の誇りでもあり、二つの帽子から一つの帽子に代るための時間でもあった。それでも、実際は「音楽」の世界への目の向き方と時間の使い方は少なかったのだと、再確認をした。音楽関係の情報が少なくなっていたのだ。

 福島雄次郎先生の亡くなられたことを知ったことで、私のいまの土俵の脆弱さを思い知ることができた。先生のご冥福をお祈りする気持ちと、そう気付かせてくれた先生は、何十年たっても深い慈愛に満ちた先生だとの思いが湧いてきた。



 

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