徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*九十八段*<斎藤秀雄・指揮法教程>2008.4.29

 春期の指揮法集中講座を今年も開催した。まだあと一日を残しているところだ。大々的に受講生の募集をしているのでもなく、家内工業的な受講生の募り方なのだが、それでも何人かの受講生が来てくれる。これは嬉しいことだ。

 何回か同様のことを書いてはいるのだが、指揮法の、あるいは指揮の教授という面で行き詰るのは、確立されたメソッドがなかったということだ。教授する側にも、受講する側にも限界が早く来てしまう。あるいは、受講していてもいま一つしっくりこない感じがしてくる。私が受講していた経験からもそう感じる。

 日本で唯一の、あるいは世界で唯一の指揮のメソッドが斎藤秀雄先生の著書「指揮法教程」であるということを信じて疑わない。おそらくこれを超えるメソッドは、指揮法に関しては未来永劫に現れないのではないかとさえ思える。(この方法を元に指導の過程でさらに工夫を加えることはあるだろう。それでも、それはあくまで「加える」という意味だ。)

 腕を動かすという指揮の独自の運動をこれだけ分析し、体系化すること自体、並大抵の人間のできることではないとつくづく思うからだ。私が音楽に関係して今日いられるのも、この指揮法教程のおかげと、それを正しく伝授してくださった師のおかげだ。この二つが私を変えてくれた。

 ある曲を指揮するときに、この部分を指揮するにはどう腕を動かせばよいのか、という観点でその時の課題を解決してきた方法がそれまでの指揮のレッスンだった。じつはその方法では根本的には力が累積していかない。風邪をひいたときに処方される薬のようなものか、あるいは疲れた時に飲む栄養剤のようなものだ。または、対応に困った時にする人生相談のようなものか・・・。もちろん、困った時の薬や悩んでいるときにカウンセリングが必要なのは言うまでもないのだが。

 そんな中で、何とか自力で解決する基礎体力や基礎能力をつけられれば、生きる自信にもつながるだろう。メソッドの有用性はまさにそこにあるのだ。さて、必要最低限の力はどのあたりでつけられるのか。指揮法教程での応用練習曲の数は八曲だ。基礎の基礎がそこでついてくるというのが実感だ。基礎の説明と訓練、それに応用練習曲八曲だけですべて満たされるとはだれも思わないだろう。しかし、そこまででもやってみて、よりどころとなる力をつけようと思うことがはじめの一歩だろう。

 音を自ら出す楽器の演奏や声を出す行為は、己に自信がなければ音を出さなければ、誰にも迷惑をかけることはない。その中で音楽教師の「指揮」だけは別格だろう。その動きを見て音を出さざるを得ない「子ども」が存在するからだ。教師の指導内容と指揮が一致していて、気持ちよく演奏できるのが子どもにとっても良いことだし、聴く側にとっても幸せなことだ。私は自分でも納得のいく指揮を生徒の前でできないことが自分でも嫌だったし、生徒にも少なからず「すまない」という思いを持っていた。そんな時に、目の前が開けたのが師との出会いだった。指揮法教程の斎藤秀雄先生は1974年に没している。もう34年前だ。幸い、私の師は健在で多くの弟子に指揮法を教え、著書もかかれ、今でも大きな存在だ。

 私は、私の勝手な願いとして、私の次の世代の「指揮法教程」を伝える人を育てたいと思う。それと同時に、毎日子どもの指導に当たられておられる先生方に、指揮をする時のバックボーンになる基礎の力を身につけてほしいと願っている。師は、「指揮者の筋肉、不随意筋を随意筋に」そして「無味乾燥な訓練かと最初は思うかもしれないが、回り道のように見えてそれが早道だ。進むにつれて音楽が実習に潤いを与えてくれる」と言っている。

 たまに聞く子どもの言葉・・・「指揮は見ないよ。だって見てもよくわからないから」という言葉を耳にする回数が、できれば減ってほしいという願いが大きくなる。



 

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